【2011年8月18日】
共通しているのは「スケールの違い」だ。
柴田勝家は「織田軍団株式会社代表取締役副社長」の枠から外に出て考えることが出来なかった。
対して、秀吉は「日本国株式会社羽柴藤吉郎」という大きな枠の中で物事を考えることが出来た。
これが結果として秀吉を勝利に導いた。
三成といえやっサンも同じである。
三成は「豊臣軍団株式会社財務部長石田三成」という枠から外に出て考えることが出来なかった。
対して、いえやっサンは「日本国株式会社徳川家康」という大きな枠の中で物事を考えることが出来た。
勝家も三成も「御家」という枠から出て物事を考えられなかったところに限界があった。
広い視野に欠けていた、と言い直してもいい。
秀吉政権は諸大名からも庶民からも歓迎されなかった。
諸大名は東北の一揆や文禄・慶長の役での出費の増加が苦痛の種になっていた。さらには、彼等が安定を望み始めたこともある。「拡大より安定」、それは既得権の保護を望んでいるということでもあった。
秀吉には、それがわからない。だから、秀吉が体調不良を起こすと藤堂高虎をはじめとする「既得権確保グループ」は雪崩を打っていえやっサンにすり寄った。
もう一つ、庶民の側からも秀吉政権は歓迎されなかった。
秀吉政権の年貢率は「七公三民」。わかりやすく言えば所得税70%。
この吸い上げられた所得税70%は秀吉と豊臣家のためだけに使われた。
関ヶ原後、江戸幕府も「七公三民」の税率を採用したが、その吸い上げられた70%は主に社会整備のために使われた。そのため、江戸幕府前期では中期・後期に比べて一揆の件数が少ない。
三成は秀吉政権にあって「七公三民」という「搾取」の中心にいた。
また、三成は文禄・慶長の役の軍監でもあった。
損な役回りであったことには同情するが、やはりそこは「豊臣軍団株式会社財務部長石田三成」の枠から出られなかった三成の限界だろう。
関ヶ原は、いえやっサンが勝つべくして勝った。
それは「嫌われ者」たる三成が西軍の中心になったからである。
諸大名からは「朝鮮出兵への不満の対象」、庶民からは「七公三民という搾取の張本人」として見られた三成。
相手が三成だったからこそ成立した関ヶ原。
だからこそいえやっサンは、三成の遺児に対して厳しい残党狩りはしなかった。
味のある処分だと言える。