もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

なめくじ長屋の里菜日記/有馬豊氏

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おい左平次、ありゃあ敦子じゃねえか?

左平次、おめえこないだあんなにたんまりおでん持たしたのにまた来てるぜ。でっけえ空っぽの鍋持ってこっち見てヘラヘラ笑ってやがるぞ。

左平次、あいつ来るとめんどくせえから、イヤってほどおでん持たしてやれや。

ああ里菜サン、こりゃ気付かねえで済まねえ。

いつものおでんせがむがきんちょが来てやがったからな。

で、今日はどこのハラキリお大名の話すりゃいいんだい?

何?

有馬玄蕃頭様(有馬豊氏)だ?

何でえ里菜サン、玄蕃頭様はまともなお方だぜ?

へ?

旅先の福知山で食った鴨鍋ウマかったから玄蕃頭様の話してくれろだ?

しょうがねえお嬢さんだな里菜サンは。

ま、そのすいーとぽてと見せられたんじゃイヤとは言えねえな。

じゃ、ちょいと聴いてもらおうか。

玄蕃頭様は永禄12年に刑部卿様(有馬則頼)の次男としてお生まれなすった。上に則氏様ってえ兄貴がいたから、玄蕃頭様は姉婿の渡瀬繁詮様に仕えて渡瀬家の家老になった。

ま、何事も無けりゃ渡瀬家の家老として生涯を送ったんだろうが、兄貴の則氏様が白山林の戦いで討ち死にしちまった。

則氏様は羽柴孫七郎様(のちの豊臣秀次)の配下だったんだがな、おマヌケ孫七郎様が白山林で「朝メシ食うぞ」なんて言いやがるモンだから朝メシ食ってるとこに徳川軍の不意討ち喰らって討ち死にだ。

白山林の戦いはたくさんの武将が討ち死にした。それもこれも、おマヌケ孫七郎様がのんきに「朝メシ食うぞ」なんて下知しやがったからだ。その孫七郎様がだ里菜サン、事もあろうに太閤に「白山林でたくさんの武将が死んでしまいました。代わりの武将をよこしてください。出来れば、池田監物(輝政)を希望します」って代わりの武将をご指名までした。こいつはおマヌケ通り越して筋金入りのトンチキだ。

太閤はカンカンになった。トンチキ孫七郎様を長久手に呼び戻して「てめえは何考えてんだ!」って諸将の見てる前で殴る蹴るの折檻よ。

その殴る蹴るを実の父親である刑部卿様と実の弟である玄蕃頭様はジッと見てた。いや、ジッと睨み付けてたんだ。

長久手の戦いは太閤があちこちに手ェ回して羽柴(豊臣)有利の状態で講和にした。講和のあとはあっと言う間に太閤が天下取った。そいつァ里菜サンも知っての通りだ。

太閤が天下を取ると、玄蕃頭様の主君の渡瀬様はトンチキ孫七郎様の付家老になった。玄蕃頭様は「太閤殿下もイヤなことをしてくれる」って思った。そりゃそうだ。名前は関白左大臣豊臣秀次だが、もとはあのトンチキ孫七郎、自分の兄貴を白山林で死なせた張本人なんだからな。

で、このトンチキ、太閤に切腹させられた。そのとき、渡瀬様も連座切腹させられた。渡瀬家は断絶、遠江横須賀3万石と渡瀬家家臣は太閤の命令で全部玄蕃頭様が相続したんだ。

太閤が何故こんな相続をさせたか?里菜サン、これァやっぱりあの白山林だな。あの負けいくさは後々まで不評だった。太閤も有馬家に対して「オレが悪かった、許せ」って思ってたんだろう。そンで太閤は渡瀬様の義理の弟の玄蕃頭様に横須賀3万石と渡瀬家家臣を相続させたんだ。これが玄蕃頭様の「大名でびゅー」だ。

太閤が薨去なさると玄蕃頭様は関ヶ原では徳川軍に付いた。その功績で横須賀3万石から丹波福知山6万石に倍加増された。玄蕃頭様の頃に福知山は整備されてな。里菜サンの食った鴨鍋も整備された福知山で生まれた。

有馬家は刑部卿様が当主のまま、玄蕃頭様の福知山6万石は分家扱いだったんだが、慶長7年に刑部卿様が亡くなられるとその所領摂津三田2万石も与えられて玄蕃頭様は8万石の大名になった。

ま、権現様から見ても見どころのあるお方だったってこったろう。

元和6年12月8日。

玄蕃頭様は筑後久留米21万石を与えられた。玄蕃頭様はとうとう国持大名になったんだ。すげえだろ里菜サン。義理の兄貴の家老が、筑後久留米21万石だぜ?

筑後はもともと筑後侍従様(田中忠政)の所領だったんだがな、筑後侍従様に後継ぎが生まれなくてお取り潰しになっちまった。そンで幕府は欠国になった筑後のうち久留米21万石を玄蕃頭様に、柳河11万9600石を立花左近将監様(立花宗茂)にお与えになった。

寛永14年。

69歳の玄蕃頭様は島原の乱に出陣した。玄蕃頭様は年齢を感じさせねえお働きでな。こいつァ激戦だった。有馬軍は6,300人いたんだが、戦死者173人・負傷者1,412人だった。そんな激戦を玄蕃頭様は戦ったんだ。里菜サン、すげえジイサンだろ?

寛永19年閏9月29日。

有馬玄蕃頭豊氏、没。

享年74。

一家老の身分から筑後久留米21万石の国持大名に。

里菜サン、人生はどこでどう良い目が出るかわからねえな。

玄蕃頭様は禅と儒学に造詣が深かった。さらには利休居士の弟子として茶の湯にも明るかった。

お大名としての玄蕃頭様は「玄蕃高」って重い年貢を横須賀でも福知山でも久留米でも課したから必ずしも領民から歓迎されなかった。また、久留米藩内の派閥争いを止めることも出来なかった。

名君とは呼び難いが、出世するにはするだけの努力があった。そこは見落としちゃいけねえよ。

すいーとぽてともらったからな。

今日は甘酒だな。

里菜サン、また。