もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

松江城

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【2013年1月10日】

松江藩

たたら御三家

というのがある。

たたらとは製鉄所のことで、松江藩では享保11年の出雲鉄方法式の制定で鉄師(製鉄業者)は9家、たたらは10ヶ所、鍛冶場は3軒半と決められた。

その鉄師9家のうち、特に規模の大きい3家をたたら御三家と呼ぶ。

たたら御三家は

櫻井・田部・絲原

の三家のことで、今日書くのは櫻井家のことだ。

櫻井家はもとの姓を

という。

塙は「はなわ」ではなく「ばん」と読む。

櫻井家の祖先は塙 直之という者だ。

塙 直之。

世間一般に塙団右衛門と呼ばれるこの男は、初め加藤嘉明に仕えていたが、関ヶ原の戦いで軍令違反をしたため加藤家をクビになってしまう。

加藤家では諸大名に奉公構を出して直之を雇えなくしたが、備前岡山城主・小早川秀秋が直之を雇った。秀秋は慶長の役で一緒に戦った直之を「このままではもったいない」と直之を雇った。が、秀秋が早くに死去してしまい、また浪人になってしまう。

次に直之を雇ったのが尾張清洲城主・松平忠吉だった。忠吉は東条松平家当主で、いえやっサンの四男だ。しかも、秀忠将軍の同母弟だ。が、忠吉もまた、慶長12年に死去する。

こうしてまたも浪人になったところを、福島正則が手をさしのべた。

福島正則には面白い一面があり、「こいつ、面白いな」と思える部分があると躊躇無く召し抱えた。あの本多政重も、一時期正則に仕えていた。

が、ここで加藤家解雇当時の奉公構が効いてくる。

小早川秀秋従三位中納言加藤嘉明とは官位がまるきり違うため奉公構が通用しない。

また、松平忠吉はいえやっサンの四男。主君の四男に対して奉公構を言い立てることなんて出来ない。

しかし、正則は違う。

石高の差はあっても、外様大名として嘉明と正則は同格だ。同格であれば、嘉明の出した奉公構は有効である。

嘉明は正則に直之解雇のいきさつをきちんと話した。筋の通った説明をしてもらった正則は「わかった。嘉明どのの説明は筋が通っていた。奉公構、聞き入れよう」と直之をクビにした。

直之はまたまた浪人になった。

今度は奉公構が効いているのでどこの大名も雇ってくれない。

直之は、出家した。

巨漢だったことから、法名

鉄牛

と名乗り、京都あたりを托鉢して歩いた。

ただ、刀を差したまま僧形で托鉢していたため、京都の人達は

「あの坊さん、頭おかしいで」

と冷笑した。

そんな鉄牛に、大坂城から密使が来る。「徳川と戦うから、大坂城に入ってくれ」と。

どうせ奉公構で武士階級では生きていけない。かといって坊主を続ける気も無い。

直之は、大坂城に入った。

このへん、直之は後藤又兵衛に似ている。

後藤又兵衛黒田長政の奉公構が効いているため居場所が無くなり、大坂城に入ったのだ。

慶長20年4月28日。

塙団右衛門直之、戦死。

直之には直胤という息子がいた。

直胤は福島正則に召し抱えられた。

直胤に対して奉公構は出ていない。また、秀吉子飼いの正則は大坂方として戦死した直之に感謝とうらやましさと申し訳無さを感じていた。そのため、正則は直胤を雇った。

その正則は、広島城無断改修を理由にお取り潰しになってしまう。

浪人になった直胤は、武士をやめた。

武士をやめた直胤は母方の姓を名乗り

櫻井直胤

として第二の人生を歩み始めた。

直胤が選んだ仕事は製鉄だった。なぜ製鉄を選んだのかはよくわからない。ただ、製鉄が天職だったのだろう。直胤は生涯鉄師として過ごした。

直胤は安芸国(いまの広島県)の可部郷で製鉄を始めた。のち、隣国の備後国(いまの広島県)に移り住んで製鉄を続けた。

直胤の子の直重の代、正保元年、櫻井家は出雲に移り住んだ。たたら御三家の櫻井家のスタートだ。

出雲は尼子経久の頃から「鉄の国」だった。

その「鉄の国」は国主が尼子から吉川・堀尾・京極・松平と変わっても「鉄の国」のままだった。

製鉄を生業とする櫻井家にとって、出雲に移り住むのはある種の運命だったのかも知れない。

松江藩の製鉄事業は出雲鉄方法式以後は完全に藩営になり、松平宗衍が延享の改革で釜甑方(ふそうがた)を新設すると鉄の加工品が藩の財政を潤した。

製鉄から加工まで。

松江藩の製鉄事業は朝鮮人参・ろうそくと並ぶ藩の三大産業になった。

もとは浪人と宮仕えを繰り返した男。

その男の息子が始めた製鉄業。

さらにその子孫が製鉄業を発展させた。

櫻井家の子孫の方々は、今もご健在だ。