もずの独り言・はてな版ごった煮

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小倉城

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【2013年1月9日】

福岡県北九州市小倉北区に安国寺という寺がある。

ここに、伊達宗興という者が葬られている。

伊達東市正宗興。

従五位下の官位を持ち、陸奥一関藩嗣子という立場だった彼は、何故一関から遠く離れた小倉に葬られたのだろうか?

伊達宗興は慶安2年に生まれた。

父親は伊達兵部大輔宗勝。仙台藩祖・伊達政宗の十男だ。なので、宗興は政宗の孫にあたる。

万治3年8月25日。

宗興12歳のとき、父・宗勝が本藩から3万石の分知を受けて一関藩を立藩した。宗興はこのとき、一関藩嗣子の地位を得た。

寛文3年。

15歳の宗興は従五位下東市正に叙任される。

翌、寛文4年。

叙任の次は縁談があり、大老酒井忠清の養女と結婚した。

大老職の養女と結婚した3万石の藩主の嗣子の前途は、この時点では明るかった。この時点では。

宗興の前途に暗雲が立ち込め始めたのが寛文5年からだった。

この年、伊達一族の伊達安芸宗重と同じく伊達一族の伊達式部宗倫との間で領地の境界線を巡る争いが勃発した。

伊達宗重涌谷領と伊達宗倫登米領の間に所有権のはっきりしない湿地帯が広がっていて、この湿地帯の所有権を巡って宗重と宗倫が争った。

当時、仙台藩は宗興の父・宗勝と宗勝の腹心・原田甲斐宗輔が牛耳っていて、この所有権争いを担当した原田宗輔が日頃から自分達に批判的な宗重に不利な裁定を下した。

原田宗輔

「問題の湿地帯は、その3分の2を式部宗倫どのに、その3分の1を安芸宗重どのの領地とする」

と、宗重に少なく配分した。

これには、日頃からのこととは別に伊達家の中の力関係も影響した。

単に宗勝-宗輔ラインだからというのではなく、伊達宗倫が二代藩主・伊達忠宗の五男だったことも裁定に考慮された。

宗重は宗倫が忠宗の五男であることを承知しているため、ここは大人しく裁定を受け入れた。

が、寛文9年。

湿地帯を検地した今村安長が裁定に逆らって5分の4を宗倫に、5分の1を宗重にと宗重に配分する領地を削ったのだ。

宗重は、激怒した。

「ちょっと待て!おまえ、依怙贔屓もいい加減にしろよ!何で裁定通り3分の1与えられないんだよ!」

依怙贔屓。

宗重が言う依怙贔屓は2つある。

1つは検地を担当した今村安長が原田宗輔の腹心なのだ。これでは問題ある地域で公平な処理は望めない。

もう1つは血筋の依怙贔屓だった。

伊達宗勝政宗の十男。

宗勝から見て宗倫は兄・忠宗の子で甥なのだ。これに対し、宗重は伊達一族だが政宗・宗勝から見れば遠い親戚。遠い親戚より近い甥のほうが大切なのだ。

年が明けて寛文10年。

宗重はまず仙台藩に今村安長の不正検地を訴えた。しかし、仙台藩の実権は宗勝-原田宗輔ラインに握られているため訴えは握り潰された。

が、今度は宗勝-宗輔ラインに不利が生じる。

2月10日、藩主・綱村の代理で江戸へ新年の挨拶に行った宗倫が仙台に帰って早々病死したのだ。

「これは好機だ」

宗重はこの年の12月、藩ではなくて幕府に伊達宗勝原田宗輔ラインの専横を訴えた。

「依怙贔屓で藩の事柄が決定される。到底納得行かない」

幕府は宗重の訴えを受理した。

翌、寛文11年。

2月まで調査を進めた幕府は3月27日、江戸高輪の大老酒井忠清邸に伊達宗重原田宗輔、それに仙台藩家老数人を呼びつけて直接対決させた。

その結果、「非は原田宗輔にあり。伊達宗重が正しい」とする判決を酒井忠清が下した。

事件は、忠清が判決を言い渡したすぐあとに起きた。

判決後、フラフラッと立ち上がった宗輔は

「倅め故!」

と大声を出すと、宗重を太刀で刺殺した。

騒ぎ声を聞いた酒井家の者が宗輔を寄ってたかって斬り刻んで殺害した。

「せがれめゆえ!」

「おまえのせいで!」というような意味の言葉だが、宗輔は何で宗重に向かって「おまえのせいで!」と大声を出したのだろうか?

その理由は、このあと起きたことを見てみると、少しわかるかも知れない。

事件から数日経って、4月5日の夜のことだった。

老中・久世広之が土佐高知藩主・山内豊昌に

「貴藩に罪人を一名預ける。翌朝、人数を用意してご登城あるべし」

と通告した。

翌朝、山内豊昌は家臣・大庭彦三郎と100人程度の人数を江戸城へ向かわせた。

そこへ、幕府の役人が

「伊達兵部大輔宗勝、藩政専横の罪で高知藩山内家へお預け!」

と命令文を読み上げ、罪人が伊達宗勝だと分かった。

「倅め故!」

これは、宗輔が「おまえのせいで、宗勝様とオレが仙台藩を私物化し続けられなかったじゃないか」という悔しさから出た大声なのだろう。

伊達宗興が父親や原田宗輔にどの程度加担していたかはわからない。

官位をもらい、妻をもらい、ゆくゆくは3万石の藩主のはずだった宗興もまた、父親に連座して豊前小倉藩小笠原家にお預けとなった。

一関から遠く離れた小倉で31年間罪人として生活し、元禄15年6月10日に54歳で没した。

31年間、罪人として小倉で過ごした宗興は、どんなことを思いながら毎日を過ごしたのだろうか?