もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

松山城

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【2013年1月15日☆】

菅谷半之丞政利。

菅谷は「すがのや」と読む。

大石内蔵助とともに吉良邸に討ち入り、伊予松山藩久松松平家にお預けになった男だ。

TVドラマでも映画でも、この男に時間と台詞を割く「忠臣蔵」はまず無いだろう。

が、この男は内蔵助から山鹿流兵学を学んだ兵学者で、討ち入りの47人のうち兵学がわかる者は大石と菅谷の2人だけだった。

存在は地味だが、兵学がわかることから大石の参謀のような男だった。

松之廊下の事件から主君・浅野長矩切腹までの報せが赤穂に届いたとき、この瞬間、菅谷と大石は「仇討ちだ」と決めていた。しかし、すぐに決起しても潰されてしまう。それも、菅谷と大石はわかっていた。

吉良を絶対に許さない。

あの首もいで主君の墓前に。

が、今はまだその時期では無い。

菅谷は大石に

「御城代、今はその時期ではございませぬ。時期を待ちましょう。そう、『深く、静かに』です。御城代」

菅谷は大石に「深く、静かに」という表現を使って時期を待つよう進言した。

赤穂無血開城後、菅谷は赤穂から備後三次(いまの広島県三次)に移り住んだ。

当時、備後三次は広島藩浅野家の分家・三次藩浅野家が5万石で支配していた。

菅谷の姉と姪が三次藩浅野家の家臣に嫁いでいたことから、菅谷は三次に移り住んだ。

三次での菅谷は読書三昧に釣り三昧の生活をしていた。その一方で菅谷は京都山科の大石と密かに連絡を取り合っていた。菅谷は三次で、大石は山科で「深く、静かに」その時期を待ったのだ。

吉良・上杉は大石のことは徹底的にマークしたが、菅谷はほぼノーマークだった。菅谷の「深く、静かに」は完璧だったと言えよう。

浅野長矩の弟・長広をもっての浅野家再興を却下された大石は三次の菅谷に「ここで起つか?」と密書で問うた。

菅谷は「ここでしょう。幕府にも世間にも筋は通したのです。筋を通したうえでの挙兵なら、世間も義挙と見てくれましょう」と返事した。

毛利小平太を入れても、たったの48人。

そのたった48人の挙兵はこのとき決まった。

山科を発った大石と菅谷は江戸へ向かう道中で合流した。

大石と菅谷は武蔵川崎(いまの神奈川県川崎市)の平間村の家屋に滞在して作戦を練った。ここで練った作戦をそのまま討ち入りの日に実行した。

討ち入りの日、菅谷は裏門組として刀を振るって戦った。

菅谷が吉良邸の奥のほうまで行くと、一緒にいた赤埴源蔵が「そこに誰かうずくまっているぞ。もしや、あれが上野介…」とうずくまっている者を見つけた。

菅谷と赤埴が近づいて見ると、粗末な衣服の男だった。

その男は「私はこの邸の下働きの者です。どうか見逃して下さい」と両手を合わせて菅谷と赤埴を拝んだ。

赤埴は「こいつ、しょうがねえなあ。さっさと行け」と逃がした。

のちに47人の処分が決まり、菅谷が久松松平家、赤埴が細川家へお預けとなり、二人して「これでお別れだなあ」と話していたところ、細川家家臣・堀内伝右衛門が

「実はあれは、吉良家筆頭家老・斉藤宮内でござった」

と教えた。

「ええ~っ!」と菅谷と赤埴は声を揃えた。そして、「惜しいことしたなあ」と笑った。

笑い合える友。

一緒に作戦を練った上司。

同じ目的のために戦った同志たち。

みなそれぞれ、細川・久松松平・水野・毛利の4藩に分けてお預けになった。

元禄16年2月4日。

菅谷半之丞政利、切腹

享年44。