もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

なめくじ長屋の里菜日記/新井白石の「筋目論」-甲府グループと尾張グループを結び付けたもの-

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おい絵美里、おめえな、店戻ってな、白味噌取って来てくんねえか?

あのな、きぬかつぎ(里芋)たんまりもらったからな、こいつで筑前白味噌に合わせて味噌汁つくりてえんだ。

お代はあとで左平次に持たせるからよ。

里菜サン、そこにゴロゴロ転がってるきぬかつぎはな、れなが実家のしょうゆ屋から水戸屋敷へ届けたモンだ。山ほど届いて屋敷の連中だけじゃ食いきれねえってお裾分けだ。

奇遇だな。里菜サン、そいつはれなンとこで造ってる甘口しょうゆだろ?

ああ、里菜サンは関東のお人だから甘口しょうゆに驚くのも無理は無え。れなンとこは下総佐原に店があるが、あいつンとこは里菜サン、紀州湯浅から甘口しょうゆの職人雇ってるからな。甘口しょうゆは魚だな。きぬかつぎには合わねえよ。

さっき表で里菜サンとれながあのヘンテコな踊りやってたけど、何だかアレだな。里菜サンもれなもこんにゃくみてえだったな。

まさか踊りに来たワケじゃねえんだろ里菜サン?

ああ、察しはついてるぜ。すいーとぽてとはいつもより多いし、何せ今日もまた剣菱が一緒だ。

いいぜ里菜サン。

今日はどんな危ねえトンチキお大名の話でもするぜ。

家宣公御遺言?

里菜サン、剣菱もらってるから話はするが、こいつァ本来打ち首になっても文句言えねえ話だぜ。

おい左平次、おめえ人が来ねえように表見張ってろ。

御遺言のきっかけはな、あれァ確か正徳2年の9月の20日頃だったな。

家宣公が御城(江戸城)に新井のオッサン(新井白石)呼んでな、「七代将軍についてワシに3つの案があるから、どの案が良いか選んでほしい」って言いなすった。

家宣公は鍋松坊ちゃん(のちの家継将軍)がまだ4つだから、成長しねえで死んじまうんじゃねえかって思った。家宣公は新井のオッサンを呼ぶ少し前あたりから病気がちでな。里菜サンでいう「日常生活」には問題無かったんだが、かと言って健康体とは程遠かった。そんなこともあって家宣公は万が一に備えて3つ案をつくって新井のオッサンに聴いてもらったのよ。

家宣公の3つの案はな、鍋松坊ちゃんをそのまま七代将軍にする案と、尾張藩主・徳川吉通公を七代将軍にする案と、鍋松坊ちゃん元服まで吉通公が眼代(代理人)として政事を執る案の3つだった。

里菜サンの時代では1つ目の案が普通だろうし、オレたちの時代でも1つ目の案が一番まともなんだ。ただ、家宣公は里菜サンの時代でいう「責任感」ってえのが強いお方でな。成長するかどうかわかんねえ4つの坊やに征夷大将軍なんざ「無責任」だろうって思っていなすった。そこで2つ目と3つ目の案が出た。2つ目は「将軍家に人無くば、尾張紀州より立てるべし」って権現様のお定めになった掟に基づいたモンだ。3つ目は1つ目と2つ目を足して2で割った案だ。

里菜サン、新井のオッサンは迷わず「1つ目の案しかありません」ってハッキリと言った。「鍋松様がいらっしゃる以上、齢のことは関係無く七代様は鍋松様」ってな。家宣公は「鍋松は夭折するかも知れんぞ」と一番の心配を打ち明けた。そしたら里菜サン、新井のオッサンは2つ目と3つ目の案についてこう続けた。「鍋松様ご存命であるにも関わらず吉通公を七代将軍にして、諸大名が納得しましょうや?幕府は嫡子相続を建前としていますのに、その建前を将軍家が守らず諸大名が幕府に従いましょうや?また、鍋松様元服まで吉通公が眼代と仰せですが、それでは鍋松様の存在を理由に眼代の言うことを聞かぬ者が必ず現れましょう」

里菜サン、さすがに新井のオッサンは「論争の鬼」だぜ。2つ目の案は幕政は安定するが嫡子相続ってところで筋が通らねえし、3つ目に至っては鍋松坊ちゃんを将軍にしたうえでの眼代なのかそうじゃねえのかがはっきりしねえ。

まあでも里菜サン、新井のオッサンも長いこと家宣公にお仕えしてるんでな、家宣公のご心配の部分はよく解ってるんだ。新井のオッサンはな、「鍋松様が夭折されたみぎりに、吉通公を八代将軍になさればよろしいと思いまする」って言いなすった。

家宣公が吉通公にこだわった理由は2つだ。1つは尾張藩が御三家の筆頭であること。もう1つはな、家宣公ご自身が六代将軍を巡って紀州藩と争ってるモンだから、紀州には将軍職を絶対に渡したくねえってな。

そのことも新井のオッサンはよく解ってた。だから家宣公の気持ちにそぐう答えを、家宣公の気持ちに裏付けとして使える理屈を新井のオッサンは口にしたんだ。

里菜サン、家宣公をはじめとする「甲府グループ」はな、「紀州グループ」と争って六代将軍を勝ち取ったんだ。だから「甲府グループ」の政権は初めっから「紀州グループ」とは上手くいかねえ。上手くいかねえから「尾張グループ」に近づいた。そんないきさつがあるから家宣公は吉通公に、と言うか、尾張にこだわった。

新井のオッサンの話を聴いて家宣公の腹は決まった。御遺言は10月の9日に書かれた。新井のオッサンと話して半月くれえのことだ。

尾張吉通を七代将軍の後見とする」

正徳2年10月14日、六代将軍徳川家宣薨去。享年51。

この御遺言は「甲府ぐるーぷ」と「尾張ぐるーぷ」の結び付きを強くしたんだがな、家継公は里菜サンも知っての通り7つでポックリだ。

「ぐるーぷ」同士の結び付きにあぐらァかいて油断してた尾張は八代将軍を逃し、紀州の吉宗公が八代将軍におなりなすった。

里菜サン、あの世の家宣公は吉宗公の将軍宣下をどんな気持ちで見てたんだろうなァ。

おう絵美里、白味噌ごくろうさん。

さ、里菜サン、きぬかつぎの味噌汁飲んでいきな。

きぬかつぎには白味噌よ。

里菜サン、また。