もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

鶴ヶ城公園(会津若松城)

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【2012年4月27日】

井深重義。

世間一般に井深宅右衛門と呼ばれるこの男は、会津藩学校奉行だった。

家禄550石。

維新後の明治6年に小学校教員として会津に帰郷。若松区長や南会津郡書記等を歴任。地元に根を張った教育者であった。

この教育者・重義に二人の息子がいた。

長男を梶之助、次男を彦三郎という。

今日書くのは次男・彦三郎の娘のことだ。

井深彦三郎はテイという女性と結婚し、明治30年10月23日に娘を授かった。

その娘、名をば

井深八重

という。会津には新島八重と井深八重という「二人の八重」がいたのだ。

八重が7歳のとき、彦三郎とテイが離婚。彦三郎に育児が無理だと判断した梶之助が八重を引き取った。

梶之助は八重を実子同然に愛し、大切に育てた。

そして、大正7年。

井深八重は長崎県高等女学校に英語教師として赴任。

八重の人生は順風満帆に思われた。

が、しかし…

大正8年、からだの異変に気付いた八重は福岡の病院で検査を受け、

ハンセン病

と診断される。

診断結果を知った梶之助は八重を静岡県御殿場市の神山復生病院に隔離する。

しかも、隔離にとどまらず、八重を井深家から除籍してしまう。当時のハンセン病に対する差別は凄まじいものがあった。

「あんなに優しかった叔父でさえ、私をこんなに差別するのか」

八重はこの隔離と除籍をこころの傷とした。

除籍された八重は堀 清子という名前で新たな人生を歩むことになった。

それは八重にとって、ハンセン病への差別と戦うきっかけにもなった。

大正11年10月5日。

堀 清子は東京の病院で精密検査を受けた結果、ハンセン病では無いことが判明する。

叔父・梶之助は診断結果を受けて清子を井深家に復籍。こうして清子は井深八重に戻った。

「差別なんていけない。ならぬものは、ならぬものです」

大正12年。

ハンセン病への差別と戦う決意を胸に、八重は神山復生病院の看護婦になる。

差別と戦い続けた八重は日本カトリック看護協会(JCNA)の初代会長に就任する。

そして昭和41年11月3日、八重は勲五等宝冠賞を授与された。

み摂理の

ままにと思い

しのびきぬ

なべては深く

胸につつみて

平成元年5月15日。

井深八重、永眠。

享年91。

平成8年4月1日。

「らい予防法の廃止に関する法律」施行。

天国の八重は、この法律の施行をどんな思いで見つめたのだろうか。