【2012年4月19日】
宝暦5年。
肥後熊本藩主・細川重賢の命によって藩校・時習館が設立された。
藩財政がほぼ破綻状態の中、重賢は反対する声を抑えて藩校設立を命じた。
藩校設立を建白したのは重賢の先々代・宣紀から仕える学者・秋山玉山で、重賢は秋山を時習館初代学頭に任じている。
学頭は現場の責任者だ。
重賢は秋山に
「秋山、人を育ててくれ」
と、その一点のみ注文した。
注文するにあたり、重賢は
師は国の大工どの。
人づくりは木づくりなり。
木配りは人配りなり。
と、教師を大工、生徒を木材に喩えて話した。
さらに重賢は
木配りは気配りに通じる。
とも言った。
重賢は「家を建てるのは大工だ。その大工が使う建材も、杉には杉の用があり、檜には檜の用があるだろう。秋山、人づくりが木づくりなのはそういう意味だ」と言った。
重賢は藩を一軒家に喩えた。
柱になる木、床になる木、大工はそれを見抜いて家を建てる。それは柱になる木と床になる木を適材適所に用いるということだ。
これが重賢の言うところの「人づくりは木づくり、木配りは人配り」の部分で、人を育てて適材適所に用いるために「木配りは気配りに通じる」と言っているのだ。
秋山は重賢の意思をよく汲み取って子供たちを教育した。
そのため、時習館からは優秀な若者を多く輩出した。
学頭には秋山玉山を任じたが、藩校全体の管理・運営を担う総教(総長)には長岡忠英を任じた。
意外な人事だった。
長岡忠英は細川一門で家禄6千石。家祖は細川忠興長男の忠隆である。
細川忠隆は父・忠興と不仲になったため廃嫡されて長岡姓を名乗った。
のち、忠興と忠隆は和解し、忠隆の子孫は熊本に移り住んで細川家の家臣となった。
長岡忠英は長岡家の五代目に当たるが、先代の忠重が失火から自らの屋敷と隣近所を焼失させるという不祥事をしでかし、忠重は生涯幽閉という処分にされた。
父親の不祥事があって忠英は何かと肩身が狭かったのだが、そんな忠英を重賢は起用した。
重賢は起用理由について
「兵学を好み書を能くし、また武芸にも熟達す。藩校設立に及び、教育を重んじ特に忠英を総教に任じる」
としている。
父親の不祥事と当人の能力は無関係。そう割り切って重賢は忠英を総教に起用した。
重賢は人事で「木配りは人配り」を実践した。