【2012年10月5日】
慶安2年12月26日。
肥後熊本藩主・細川光尚死去。享年31。
このとき、嗣子・六丸はまだ6歳だった。
「6歳の幼児に肥後一国の国主は務まるまい」
これが幕閣のほとんどの意見だった。
この当時の幕府の基本政策は
「外様など、あるだけ迷惑」
というもので、細川家といえどもその例外では無かった。
幕府内部では
「嗣子・六丸どのに持高三分の一で相続させるというのは、どうじゃ?」
という意見が出た。
持高三分の一。
つまり、肥後一国・54万石のうち18万石の相続を認め、残りは収公してしまおうと言うのだ。
幕府はその方向で検討を始めた。
「持高三分の一じゃと…」
これを知って愕然としたのが熊本藩筆頭家老・長岡興長である。
長岡佐渡守興長。
もとは松井興長と名乗っていたが、主君・細川忠興から長岡姓を与えられた忠臣である。
興長は
「どうせまた酒井讃岐守が『外様など、あるだけ迷惑』だとか抜かしおったのであろう」
と察し、削封阻止のために手を打ち始めた。
まず、江戸家老・沼田勘解由に幕府への工作を指示した。
「世渡り上手」の細川家の工作である。沼田勘解由の工作は徐々に効きはじめる。
次に興長の養子・長岡寄之に幕府上層部への交渉を指示した。
寄之は江戸城で光尚の遺書を提出した。
遺書には
「このように早世してご奉公が叶わなくなること、誠に申し訳なく思います。肥後一国を収公されても私は恨みに思いません。二人の男子は成長後、役に立ちそうならお取り立ていただきたく…」
と書かれていた。
遺書に眼を通した家光将軍は
「越中守、不慮に相果て残念に思う。これまでの忠勤に免じ、六丸の肥後一国の相続を許す」
と、六丸の肥後一国相続を許可した。
ただし、六丸はまだ6歳のため、豊前小倉藩主・小笠原忠真が監国(政治監督)となることを条件とした。
これが慶安3年4月18日のことである。
一連の工作は結果を出したが、やはりこの工作の成功には長岡興長の存在が大きい。
興長は首席老中・松平信綱に
「伊豆守どの、島原の乱の折りには互いに苦労しましたなァ」
と、余計なことを言わず、それだけ言った。
島原で一緒に辛酸舐めた興長の気持ちはすぐに伝わった。あの過酷な島原の戦場で、同じ釜のメシを食った仲なのだ。
信綱は家光将軍に直接熊本藩存続を訴え、それが光尚の遺書提出につながった。
長岡興長、肥後熊本54万石を見事守った。