もずの独り言・はてな版ごった煮

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小城公園(小城城)

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【2013年3月21日】

鍋島紀伊守元武。

肥前佐賀藩の分家・小城藩主である。

元武は文武に通じていて、そのため、常陸水戸藩主・徳川光圀とも親交があった。

また、文武に通じていたことが幸いし、綱吉将軍の奥詰に任ぜられた。

奥詰。

綱吉将軍一代限り設定された役職で、将軍の私的な諮問機関である。

公的な諮問機関としては溜間があったが、綱吉将軍は「広く意見を得るため」と奥詰を新設した。

溜間詰は陸奥会津・近江彦根・讃岐高松の三藩が代々世襲した。

しかし、世襲のため能力は問われない。それは実際に起きている時事問題に疎くても務まるということだ。

綱吉将軍は「それはダメだ」と奥詰を新設した。

奥詰は隔日登城で綱吉将軍の諮問に応じた。また、奥詰大名に譜代・外様の別は無かった。溜間とは違い家柄固定が無いので、自由な意見交換があった。

鍋島元武は長年奥詰を務め続けた。それだけ能力があったということだろう。

奥詰になった大名の中には罷免のうえ改易という悲惨な大名もいたが、元武はそのようにはなっていない。

奥詰は家宣将軍の就任とともに廃止された。

「反綱吉」の家宣将軍にとって奥詰などあるだけ迷惑だったのだろう。

以降、溜間にはもともと溜間詰の三藩の他、一代限り溜間になる者や老中職を退任した者が「前官待遇」で溜間詰になる等、人数が増えて最終的には15人程度にまで膨らんだ。しかし、人数の増加は溜間の形骸化につながった。

元武の有能さを伝える話として、綱吉将軍が元武を肥前小城から遠江浜松へ転封させようと考えていたことが挙げられる。

浜松藩主は譜代大名しかなれない。それは、綱吉将軍が元武を譜代大名にしようとしていたと考えていたこととイコールだ。

譜代大名の一部に「願御譜代」と呼ばれる家があった。「願い御譜代」というのだが、外様大名が幕府に願い出て家格を譜代大名に変更するのだ。

播磨龍野の脇坂家がそれで、脇坂家はもともと外様だったが、直系が途絶えたあと、譜代の堀田家から養子を迎えたことをきっかけに家格変更が認められた。

小城藩鍋島家も、もしかしたら譜代大名になれたかも知れない。が、元武の浜松転封は実現しなかった。

綱吉将軍が薨去したのだ。

綱吉将軍に才能を愛された元武。

それに応えようと自領・小城では生類憐れみの令を厳格に適用して領民から憎まれるところもあった。

正徳3年8月20日。

鍋島元武、没。

享年52。