もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

鶴山公園(津山城)

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【2011年1月20日】

森 光照。

山新田藩主・森 長俊の4男である。

山新田藩というヘンテコな藩名は、この藩が領地を分けずに作られた分家であることを意味する。

山新田藩は本藩の美作津山藩から1万5千石を与えられて立藩した。

しかし、これは領地を分けた分家では無い。そのため、便宜上津山新田藩と呼ばれる。森家に限らず国持大名はこういう「○○新田藩」という分家を作ることがよくあった。

この津山新田藩の4男坊である森 光照は、どういう訳かはわからないが中山三五郎という旗本に仕えることになった。

中山三五郎はのちに上野館林藩家老・黒田用綱の養子となり、名を黒田直邦と改めた。

直邦は館林藩主・徳川徳松(綱吉将軍の息子)の側近となった。が、徳松が夭折したため直邦は江戸に呼び出されて老中職となり、常陸下館藩主となった。

黒田直邦が下館藩主になると、光照は下館城代となった。1万5千石の部屋住みで生涯を終えるはずだった光照は下館城代にまで出世した。

山新田藩は本藩である津山藩がお取り潰しになった際、津山から播磨乃井野へ国替となった。国持大名の連枝という地位を失ったのだ。

そのことを思うと、津山藩連枝の地位を無くした分家の4男坊よりも黒田家の家老のほうが光照にとって幸せだったのかも知れない。

黒田家は「館林グループ」だったが、吉宗将軍が綱吉将軍にかわいがられていたこともあり、直邦たち「館林グループ」の連中や松平輝貞のように綱吉将軍薨去後に冷や飯食いになっていた者たちは吉宗将軍就任後に大手を振って歩けるようになった。

光照が病気で倒れると、本家・乃井野森家(三日月藩)から藩医が派遣された。これは、光照が三日月藩と中央をつなぐパイプ役だったことを意味する。

光照の死後、息子の光仲が跡を継いだ。光仲のとき、黒田家は常陸下館から上総久留里へ国替となる。藩主・黒田直純には久留里城築城許可が下り、その築城の指揮を執ったのが光仲だった。光仲以降も森家は代々久留里藩の家老を務めた。

津山藩連枝の地位を失ったことに光照がどんな気持ちだったかはわからない。ただ、光照は津山藩が改易されたことで乃井野森家の血筋の中にあっても「きらり、この人」になれた。

もし、津山藩が改易されずに存続していたら、光照の存在は森家の中で重要視されなかっただろう。

光照の出世の糸口が綱吉将軍なら、津山藩を取り潰したのも綱吉将軍。

歴史は皮肉だ。