【2013年1月18日】
「谷山犬の喰逃げ」
これは、鹿児島県谷山地域の方言で、無銭飲食を意味する。
「犬の喰逃げ」は「いんのくれにげ」と読むが、谷山地域では犬が飲食店で無銭飲食するんだろうか?
いや、違う。
犬では無い。
やはり、人間だ。
人間が無銭飲食をする。
「無銭飲食するヤツは、犬みたいなヤツだ」
谷山地域の人たちはそう思ったんだろう。そして、「犬の喰逃げ」という言葉が生まれ、今日に至った。
この方言が生まれた鹿児島県谷山地域。
江戸時代初期、ここに、亡命貴族が落ち延びて来た。
その者の名は、
という。
彼は誰もが元和元年5月8日に大坂城の糒蔵で自害したと思っている、あの秀頼だ。
「へ!?生きてたの?」
可能性を示すのが、谷山地域に今も残る秀頼の墓だ。
秀頼は薩摩に落ち延びる際、数名の家臣と共に落ち延びた。その子孫の方々が、今もいらっしゃる。
木下俊煕さんという方は『秀頼は薩摩で生きていた』という著書まで書いている。
墓があり、子孫がいる。
石田三成の子供が津軽に逃亡するのを黙認したいえやっサンのことだ。秀頼の薩摩行きも黙認したかも知れない。
が、いえやっサンは立場上、そのまま秀頼の薩摩行きを認める訳にはいかない。
そのいえやっサンの苛立ちを、イギリス東インド会社平戸商館長のリチャード・コックスは日記に書き残している。
「皇帝(いえやっサン)は、日本全国に命令して残党狩りを実施し、秀頼がその中にいないか厳しく調べた。また、平戸でも家宅捜索があり、その報告は幕府にあげられた」
これが元和元年6月5日の日記で、この日記を読む限り、糒蔵の焼死体が秀頼だといえやっサンは思っていないということになる。
さらに、7月になると、コックスは京都から来た友人・イートンからこんな話を聴いた。
「秀頼公は今もなお重臣5、6人とともに生存し、おそらくは薩摩にいるんじゃないかと京都の一般の人たちが噂している」
と。
じゃ、どうやって逃がした?
島津の家臣・伊集院半兵衛が秀頼を真田大助や木村重成とまとめて箱に入れ、船荷として小舟に載せて寝屋川から海路薩摩に落ち延びた。
寝屋川周辺は湿地帯のため、徳川軍の陣が手薄だった。そこを、伊集院半兵衛は突いたのだ。
寝屋川から海に出て、薩摩に落ち延びる。
可能性は大いにある。
秀頼生存説があるのは、糒蔵にあった焼死体28体がみんな真っ黒焦げだったからだ。
DNA鑑定なんか無い時代、真っ黒焦げの遺体を検分して「これが秀頼どの、これが淀殿、これが大野治長」と断定なんて出来やしない。
断定出来る材料が残っていればいえやっサンの苛立ちも無かっただろう。
薩摩での秀頼は大酒飲みの無銭飲食野郎だった。
大坂城ではあらゆるものがタダだったが、薩摩ではそうはいかない。
秀頼は無銭飲食するうえに酒癖がひどかった。
「谷山犬の喰逃げ」
当時の谷山地域の人たちには秀頼が「こいつ、ひでえヤツだなあ」と見えて犬呼ばわりしたのかも知れない。