もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

佐賀城

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【2013年1月22日】

鍋島摂津守直恒。

肥前蓮池5万2千石の藩主だ。

蓮池藩佐賀藩支藩で、本藩から厳しい支配を受けた。

表向きは独立した大名だが、佐賀ではそういう扱いはされなかった。本藩に厳しく支配される立場だった。

鍋島直恒は15歳で肥前蓮池5万2千石を相続した。

相続直後から厳しい財政難に直面した。

こういった場合、支藩と本藩の関係が良好なら本藩が支藩を支援する。

紀州藩西条藩が好例で、紀州藩西条藩に対して合力米や金銭の援助を惜しみ無く行っている。決して厳しく支配していた訳では無い。

が、佐賀藩蓮池藩はそうでは無かった。佐賀藩蓮池藩を厳しく支配した。

若き藩主・直恒が本藩に資金援助を願い出ると、佐賀藩主・鍋島宗茂

「嫌だのう。御免こうむるわ」

と断った。

財政難はますます悪化する。

そんな中、元文3年、本藩で藩主の交代があった。

藩主が鍋島宗茂から息子・宗教に代わったのだ。

新しい藩主なら願いを聞いてくれるかも知れない。

直恒はさっそく新藩主に財政支援を申し出た。

しかし、新藩主・宗教の返事も

「嫌だのう。御免こうむるわ」

だった。

これでは蓮池藩は破綻してしまう。

だったらいっそのこと、肥前蓮池5万2千石を本藩へ返納してしまおう。

そう思った直恒は

「万策尽きましたので、領地を御本家へ返上し、参勤交代をやめにしとうございます」

と本藩へ申し出た。

参勤交代をやめるというのは、独立した大名の地位を棄てるということだ。

ここまで追い込まれた支藩に、鍋島宗教の返事は

「領地の返上は認めない。これまで通り、蓮池藩は独立した大名として幕府に対し勤めるように」

というものだった。

支配ばかり厳しく、困ったときに何も助けてくれない。

「こんな本藩、要らない」

直恒はそう思った。

直恒は

「本藩の藩主を、代えてしまえ」

と思いついた。

支藩の声をちゃんと聞いてくれる藩主に代えてしまえと思ったのだ。

直恒は佐賀藩内に本藩の厳しい支配を不満に思う連中がたくさんいることを知っていた。

まず、肥前諫早領主・諫早茂行に相談した。

諫早茂行は直恒に協力を約束した。

諫早

「直恒どの、本藩の藩主を代えるのだ。これは相当な力が必要だぞ」

と、幕府の力を借りなければ出来ないと言い、

「首席老中(総理大臣)の力を借りよう」

と直恒に言った。

当時の首席老中は酒井忠恭。前任者の松平乗邑からバトンタッチされてからまだ間も無かった。

酒井忠恭としては首席老中として外様国持の鍋島家の問題を解決すれば自身の地位も盤石になるだろうと考え、諫早の協力要請に「わかった。手を貸そう」と返事した。

また、忠恭にはもう一つ、不純な理由から佐賀藩蓮池藩問題に介入した。それは、佐賀藩が長崎警備を担当する藩であることから、直恒と諫早に恩を売って後日オランダや清国の名品・珍品を手に入れようと思ったのだ。

諫早側は諫早重臣・横田杢左衛門を酒井家との連絡役にして指示を仰ぎながら事を進めた。

そして、寛延元年。

この年の11月、江戸へ参勤のため武蔵川崎(いまの神奈川県川崎市)まで出て来ていた鍋島宗教は直恒たちによって足止めされた。

直恒は忠恭の命令文を読み上げた。

「松平肥前守儀、普段の行い良からず。よって、隠居・御役差し控えを命ずる」

家督を弟・主膳に譲って隠居せよと命じたのだ。

確かに、宗教には奇行があったため、決しておかしな命令では無いが、あまりに急なことであるうえ、隠居を命じる使者が支藩の直恒であることに不自然さがあった。

「これはおかしい」

佐賀藩重臣・鍋島茂英が調査したところ、直恒と諫早が計画したことで、そこに酒井忠恭が一枚噛んだことが発覚した。

事が明るみに出ると、幕府は宗教隠居の処分を取り消した。

酒井忠恭は朝鮮通信使接待汚職事件に関連したとして首席老中罷免のうえ上野厩橋から播磨姫路へ国替え。鍋島直恒の処分は「宗教の心次第」とされた。

「心次第」

「あなたのお好きなように」という意味だ。

寛延2年10月18日。

鍋島直恒は蓮池藩江戸藩邸で急死した。

享年49。

「心次第」の急死。

死因はいちいち書かない。

諫早茂行は強制隠居、横田杢左衛門は切腹となった。