もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

なめくじ長屋の里菜日記/横手城代・伊達宣宗-秋田伊達家のルーツ-

f:id:Hanzoandmozu:20200504190023j:plain

ああ、里菜サン。

またいつものすいーとぽてとかい?

いつも済まねえ。そいつは左平次も楽しみにしてるヤツだからな。

ん?

あの妙に艶かしい娘っ子は誰って?

ああ、ありゃあいいんだ。あんなのは里菜サンみてえな真面目なお嬢さんが関り合い持つ必要なんざ無えんだ。

あれァな、絵里奈って言ってな、絵美里の味噌屋ンとこの斜め前に珍珍堂ってインチキくせえ薬屋があったろ?あの薬屋の娘だ。あいつンとこはな里菜サン、ヨヒンビンつくってやがるんだ。ヨヒンビン。

ヨヒンビンってえのは里菜サンにはちょいと言いづれえんだがな…その…アレだ…媚薬のこった。ヨヒンビンなんかつくってやがるから娘もあんな艶かしいのになっちまった。

あいつの親父が多摩金斎ってえ蘭方医崩れでな。どういうワケか長崎でヨヒンビンのつくり方教わってな。で、江戸で珍珍堂開店してヨヒンビンで一儲けしたのよ。スケベはオレたちの時代にもいっぱいいるからな。

さ、里菜サン、今日はどこのハラキリお大名の話をすりゃあいいんだい?

へ?

伊達左門様(伊達宣宗)?

ああ、昨日大眼宗の話したからな。

あのお方はトンチキじゃねえんだがな、終わりがあんましよろしくなかった。

ま、しょうがねえって言やあそれまでなんだがな。

左門様は幼名を五郎って言ってな、父親は国分盛重様。盛重様は伊達輝宗様のご実弟だ。それは、陸奥中納言様(伊達政宗)の叔父さんってこった。

盛重様はな、里菜サンにわかりやすく言うと、ちょいとデキが悪かった。能無しって言うと里菜サンにはもっとわかりやすいんじゃねえかな。盛重様は国分家へ養子に出されたんだが、行った先の国分家から「こんなバカ殿は、困る」って苦情が出た。バカだろうがトンマだろうが伊達は国分領を手に入れてえ。最初は輝宗様も力で押さえつけて国分の家中を黙らせようとしたんだがな、国分の連中は黙らねえ。とうとう「こんなバカ殿要らねえから、伊達家に帰すぜ」って言い出した。それじゃ困るってんで輝宗様は「いや、違うんだ。そいつ(盛重)は伊達家から遣わした代官なんだ。国分の殿様じゃねえんだ」ってことにした。家ェ継がせんのに養子に行かせたのが代官扱いだぜ里菜サン。こんなマヌケな話あるかよ?

で、結局国分は当主不在の合議制で盛重様は殿様じゃなくて代官ってことになっちまった。この時点で盛重様は国分からも実の兄貴からもダメの烙印押しをされちまった。

まだあるぜ里菜サン。輝宗様が死んで、太閤が天下取ると、伊達家は会津黒川(のちの会津若松)から陸奥岩出山へ国替えになった。こンときだ里菜サン、盛重様が完全にバカ殿様にされちまうのは。国替えになって、国分の連中は「あの殿様面した代官が気に入らねえ。もう伊達家からは離れる」って言い出した。政宗様は「こりゃダメだ」って思った。で、政宗様は国分の連中に「盛重の何がダメなんだ?」って聴いたんだ。そしたら里菜サン、国分の連中からは盛重様へのダメ出しの「おんぱれーど」よ。政宗様はここで決めた。「盛重は国分から引き上げる。国分の者どもは今後伊達家の直臣といたす」ってな。国分から引き上げた盛重様に政宗様は「そもそもこんなことになったのは、おまえが能無しだからだ」って言って「おまえ要らねえや」って伊達家から叩き出した。これが慶長元年のこった。

伊達家追い出されてルンペンになっちまった盛重様は常陸水戸の佐竹右京大夫様(佐竹義宣)を頼った。里菜サン、右京大夫様の正室は盛重様の妹で政宗様の叔母さんだ。ルンペンになっちまった盛重様を右京大夫様は召し抱えた。召し抱えられた盛重様はこンとき姓を国分から伊達に戻した。

盛重様は佐竹じゃえれえ重宝されてな。国分でのバカ殿扱いがウソみてえに信用された。そんな信用された盛重様は佐竹家が出羽久保田(秋田)に国替えになると出羽横手1,000石を与えられて横手城代に任ぜられた。ここで横手城が出て来るんだ里菜サン。ま、20万5800石の中からの1,000石だ。決して小さくはねえぜ。

1,000石の横手城代にはなったんだがな里菜サン、盛重様は身一つで伊達家から追い出された。女房子供は伊達家に残して来たからこのまんまだと横手城代伊達家は断絶しちまう。そンで盛重様は右京大夫様に頼んで佐竹一門から養子をもらうことにした。

佐竹一門に佐竹中務大輔義久様というお方がいてな、里菜サンの時代じゃ東 義久って呼ばれてるかも知れねえが、このお方に五郎様って息子がいた。この五郎様が盛重様の養子になった。で、慶長13年に元服して伊達左門宣宗様って名乗られた。宣宗様の「宣」の字は右京大夫様の義宣の「宣」の字だ。里菜サン、これで横手城代伊達家が右京大夫様からどれだけ信用されてたかがわかるだろ?

その後、元和元年の7月15日に盛重様は亡くなられた。左門様はこンとき22歳。横手城代としての「すたーと」だった。

ま、平穏無事に過ごせりゃ良かったんだがな、ありゃあ確か元和7年、左門様28歳のときだな。あの巌中のヤツが稲庭地域に現れて大眼宗をやり始めたんだ。

あとは昨日話した通りだぜ。

元和8年の2月だったな。大雪降って凍える寒さの日に左門様は巌中改め七左衛門を横手城下でだまし討ちにした。主だった信者もその場で討ち取られた。その場で斬られなかった信者たちは家屋・財産没収になった。

横手城代としちゃあ正しい処分だったんだがな、久保田の殿様は右京大夫様だ。右京大夫様は石田治部少輔(石田三成)の親友だ。里菜サン、右京大夫様は親友に似て愛民だった。愛民だから領民から財産没収なんて堪えらんなかった。お怒りの右京大夫様は左門様に「七左衛門を討ち取ったのは正しいが、信者の財産没収は処置正しからず。よって、伊達宣宗の横手城代の職を解き家禄没収とする」って申し付けた。

正しいのに御家断絶だぜ里菜サン。世の中嫌ンなった左門様は横手から出奔して諸国をふらふら歩き回った。

巌中改め七左衛門を斬ってから7年。左門様はひょっこり横手に戻って来たんだ。横手にゃあ左門様のカミさんが独りで左門様の無事を祈りながら戻って来るのを待ってたんだ。横手城とは比べモンになんねえくらい粗末な家で左門様のカミさんはずっと待ってた。左門様はカミさんを見て涙が止まんなかった。「オレは独りぼっちじゃねえ。帰りを待っててくれる人がいる」ってな。

左門様とカミさんは横手の水沢村ってトコに粗末な家ェ建ててな。そこで3年ばかし過ごした。城も領地も無えけど、穏やかで温かい、しあわせな3年間だったって聞いてるぜ。

寛永9年4月2日。

元横手城代・伊達宣宗様、没。

享年39。

左門様とカミさんの間にゃあ水沢村で自然丸様って一子が生まれてな。自然丸様はのちに560石与えられて久保田藩士に返り咲いた。これが伊達外記隆宗様よ。

外記様の血筋は維新まで続いた。これが里菜サン、秋田伊達家だ。

左門様とカミさんにもすいーとぽてと食わしてやりたかったなァ。

里菜サン、また。