【2008年11月11日】
“I CAN NEVER CHANGE IT”
(オレは変わらない)
そしてそれを根付かせたのが豊臣秀吉と千 利休だ。
秀吉と利休の美意識には決定的な違いがあった。
秀吉は「ド派手、きんぴか」を好んだが、利休は「侘び寂び」といった地味を好んだ。
これは使う茶碗にも表れていて「秀吉の金、利休の黒」と呼ばれることもある。
美意識の違いが生み出す対立。
茶人・利休ははっきりと「オレは変わらない」と言っている。
これは秀吉の弟・秀長が健在なうちは丸く収まっていた。
「利休は茶人だが、兄者の側近でもある」
秀長がそう考えていたからだ。
ところが、秀長が体調を崩しはじめると、石田三成たち「吏僚派」は「自分たちが新しい側近になるべきだ」と考えはじめた。
そうなると、利休のことが邪魔になる。
のちに豊臣秀次を葬るときと同じやり方を取って利休を取り除くことにした。
たとえどんなに小さな微罪でも、逐一秀吉の耳に入れる。これをやり続けた。
そしてとうとう、秀長が死んだ2ヶ月後、利休は賜死となった。
茶人に切腹などと、異常としか思えない。この異常を後押ししたのが石田三成ら「吏僚派」だった。
「吏僚派」はのちにこれと同じやり方を朝鮮の役で渡韓した武将たちに用いたため、三成はその身を破滅させ豊臣家は寿命を縮めた。
利休の内面には相反する二つの感情があった。
一つは、「侘び寂び」の精神で、黒を基調とした茶碗を好んだことはその証明だ。
が、もう一つ。これは利休が商人出身ということもあるのかも知れないが、金銭への執着が強かった。
「侘び寂び」と金銭への執着。
利休がどんな気持ちでこの相反する感情と向き合ったのか?そしてそれを茶の湯にどう表現しようとしたかったのか?
大坂城で秀吉の側近として過ごすとき、どんな気持ちだったのだろう。
「繊細で複雑」
利休を一言で表現すれば、こうなる。
この言葉が当てはまる人物は利休の死後、ずっと年月を経て現れる。
徳川慶喜だ。