【2009年12月8日】
ほう、津和野城ですか。
元禄11年、勅使接待役を命ぜられた津和野藩主・亀井茲親は江戸屋敷に帰って来るなり
「あのクソジジイ、叩っ斬ってやる!」
と大声で怒鳴った。
「クソジジイ」とは吉良上野介義央のことだ。
吉良義央は茲親をいじめ抜いた。
細かいことをいちいちあげつらい侮辱した。
儀式好きの幕府は勅使を招いたり院使を招いたりし、その接待を5万石前後の外様大名に命じた。
その接待の指導にあたるのが高家と呼ばれる旗本連中で、吉良義央は高家の筆頭だった。
高家は旗本なので石高は万石以下と小さいのだが、官位が従四位下まで進み、中には従四位上まで進む者もいた。
島津・伊達・細川・黒田・浅野…みんな極官は従四位下である。つまり、官位だけで見ると国持大名に並ぶかそれ以上なのである。
だからだろうか、高家の連中は接待指南をするとき、だいたい接待役の外様大名をいじめた。5万石前後の外様の官位はどんなに頑張っても従五位下。高家の連中は馬鹿にしていたのだ。
見下され、侮辱され、もう我慢の限界だ、と思ったとき、津和野藩家老・多胡真蔭が
「殿、勅使接待が終わるまで、何卒ご辛抱を」
と頭を下げた。
多胡は「このままでは、殿は本当に吉良どのを斬ってしまう」と思い、津和野藩の経理担当者に1万両(5億円)を用意するよう指示した。
経理担当者が1万両を持って来ると、多胡はそれを手に吉良屋敷に向かった。
次の日の朝、「ああ、またあのクソジジイにいじめられるのか…」と茲親は重たい気分で江戸城に向かった。
ところが吉良義央の態度が昨日までとはまるで違った。人が変わったように親切になり、ときには温かい言葉まで口にするようになった。
そして茲親は無事勅使接待役を果たした。
茲親は江戸屋敷で多胡に「あのクソジジイ、急に優しくなりやがって。薄気味悪かったな」と言うと多胡は
「実は藩庫から1万両を出して吉良どのに賄賂として贈りました」
と正直に話した。
「そうか。そうだったのか…」
茲親は1万両持ち出しを怒らず、自分のために吉良義央に1万両を持って頭を下げに行った多胡に感謝した。
この1万両が無ければ、茲親は吉良義央を斬ってお取り潰しになっていたかも知れない。
多胡真蔭、名家宰である。