【2009年12月9日】
吉宗将軍の首席老中・松平乗邑は肥前唐津藩主として大名デビューした。
その後、土井利益と入れ替わりで志摩鳥羽藩主に、さらには山城淀藩主にと転封した。
淀藩主のときに大坂城代となり、そして吉宗将軍によって江戸に呼び戻されて老中職となった。以後、老中職であること22年、勝手掛兼帯を8年間務め吉宗将軍と二人三脚で「享保の改革」を進めた。
老中職就任とともに淀から下総佐倉に転封となった。転勤が多い人だったんだなあ。
享保10年、江戸で火災が発生し、伝兵衛という者が放火の罪で死罪の判決を受けた。放火犯は晒し者にした上で火炙りだ。
伝兵衛が晒し者にされているとき、伝兵衛にはアリバイがあることが明らかになった。
これを知った乗邑は
「刑は執行停止。裁判のやり直しを命ずる」
と言った。
この「冤罪騒動」の一部始終を乗邑は江戸の町に貼り出させた。
そして、
「今後、重罪微罪に関わらず冤罪だと思う者は、親類や身寄りの者が刑の執行の前に再吟味(裁判のやり直し)を願い出るように」
と通達した。
このことで、裁判のやり直しを願い出る者が何人も出た。
江戸時代は司法の独立性よりも司法の公平性・透明性のほうがずっと問題だった。
「公事方御定書」は乗邑が首席老中のときに制定されたものだ。
名奉行として知られる大岡忠相は松平乗邑について
「左近将監どのの才智には、私は梯子をかけても追いつかない」
と話している。
ある裁判について忠相が訴訟書類を何日もかけて調べあげ、それを乗邑に説明しに行ったことがあった。
乗邑は忠相の説明を半分くらい聴いたところで「その先はこうなるんだろう?」と結論を言い当てた。
大岡忠相でさえかなわなかった首席老中。
松平乗邑というとどうしても「増税主義者」だとか「財政通」だとかいうイメージが強いが、乗邑には「司法通」の一面もあった。
乗邑は唐津でどんな殿様だったんだろう?と興味深く思う。