【2009年12月3日】
「マツヤマサ~ン!」
ん?
何?
友達の名前呼んでるの?
いや、違う。
松山には日露戦争の捕虜収容所があった。
明治32年、捕虜の人道的処遇を定めたハーグ条約が締結され、日露を含む30ヶ国がこれに調印。その適用第1号として、松山収容所は欧米列強から注目された。
捕虜。
イメージとして、あんまり囚人と変わらんのじゃないか?と思う。
少なくとも、良いイメージを持っている人なんかいないだろう。
じゃ、実際に松山収容所に収監された6,000人のロシア軍捕虜の生活はどうだったのか?
外出OK
道後温泉入浴OK
家族持ちは民家への移住OK
何だかもう、捕虜というよりお客さん。
家族持ち捕虜というのは、ロシア軍の中に家族連れで戦地にいた者があり、彼等は家族連れで投降した。
温泉入浴OKなので、ロシア軍捕虜はひとっ風呂浴びたあとに温泉の料亭でどんちゃん騒ぎをした。
こうなると、もう誰も捕虜だとは思わない。
さらには、外出自由をよいことに女学校に行って女の子をバシャバシャ写真で撮るスケベ捕虜まで現れた。
そして、松山には神戸や長崎から捕虜相手の商人がやって来て表通りに喫茶店やらレストランやらビリヤード場やらを作った。
ただ、松山の人たちはロシア軍捕虜を侮辱したり差別したりすることは無かった。むしろ親密な交流があり、あるロシア軍捕虜は帰国の際「松山の人たちは、まるで自分たちを兄弟のように扱ってくれた」と言っている。
こんな良好な雰囲気で生活出来るのだ。
ロシア軍の間でも松山収容所は噂になった。
だから、ロシア軍兵士は日本軍に投降するときに「マツヤマサ~ン!」と叫びながら投降したのだ。
松山収容所で死亡したロシア軍捕虜は98人。
この98人の墓は地元の人たちによって今も清掃が欠かさず行われている。