【2009年4月6日】
松平三河守斉民。
美作津山10万石の大名だ。
斉民は家斉将軍の14男、家慶将軍の異母弟にあたる。
斉民は度々将軍候補に挙がることがあった。
まず、家慶将軍の後継を決める際、名前が挙がった。知的障害のある家定を不安視する人たちが斉民を推した。このとき、その声を遮って家定将軍を就任させたのが首席老中・阿部正弘だった。
正弘にはある思惑があって、それは
「一橋様(徳川慶喜)を将軍に」
というものだった。
家定将軍に知的障害があることを知っていた正弘は家定将軍のあと、14代将軍に慶喜を就けようというハラだった。
だから、斉民が家定を押し退けて13代将軍になったら困るのだ。
家定将軍が13代将軍となり、正弘の思惑通りになりかけたとき、14代将軍を決めるにあたって大老職・井伊直弼が
と言い出した。
「紀州か?一橋か?」
そんな中、またしても斉民の名前が将軍候補として挙がる。
直弼が「紀州様の滑り止めに」と斉民に打診したのだ。
このときはさすがに直弼に対して「異議アリ!」の声が多かった。
「作州様は家斉公の御実子とはいえ、いったん外に出た(養子に行った)お方。将軍には…」
というのが反対派の主な理由だった。
似たようなことは、8代将軍を決める際にもあった。
徳川吉宗(紀州藩主)、徳川継友(尾張藩主)の二人が候補者だったが、家宣将軍の未亡人・近衛煕子(天英院)が
「館林どのは、どうじゃ?」
松平清武は家宣将軍の実弟で、血筋だけを見ればむしろ吉宗・継友両人よりもレジテマシーがはっきりしているのだ。
が、これは反対意見が大きかったため実現しなかった。
反対派は
「館林様は幼い頃、いったん越智家に養子に行かれたお方。一度外に出たお方では…」
と言って反対した。
血筋のレジテマシーと継承のレジテマシーは別物。徳川幕府にはこの考え方が根付いていた。
結局、14代将軍には徳川慶福(家茂)が就任した。
これは、例のあの篤姫と斉民が親しかったことによる。
「結婚するときは、必ず左中将(斉民)に相談しなさい」
と言っている。
斉民に人望があったことを示している。これなら、井伊直弼が将軍就任を打診したのもわかる話だ。
斉民は自分よりうんと若い篤姫が先にこの世を去ったとき、歌を詠んだ。
御姿を
仰ぐも悲し
ぬかつけは
落るなみたに
雪もきえつつ