【2010年9月6日】
徳川重倫。
紀州藩の8代目の藩主だ。
しかし財政再建が順調に進まないことから、重倫は何を血迷ったか財政責任者2名を自らの手で斬殺した。
2人を殺害したからといって財政が良くなるわけでもなく、この事件がきっかけで重倫と家臣の間に溝が出来た。
重倫の家臣の「お手討ち」はさらに続いた。
斬るほどの罪ではない者も殺害されるようになった。
このような尋常ではない「お手討ち」を乱発する重倫に、京都の有栖川宮家は
「キチガイに娘はやれない。婚約は破棄させてもらう」
と通告した。
職仁親王の娘・於佐宮は重倫と婚約していたのだが、職仁親王が「こんなトンチキに娘はやれない」と婚約破棄を通告したのだ。
そして、重倫の残虐性の決定打が出る。
側室のおふさを殺害したのだ。
さらに、おふさを斬った血だらけの刀で我が子岩千代(のちの徳川治宝)まで殺害しようとした。
このときは女中が岩千代を抱いて逃げ回り事なきを得たが、この一件が家臣たちの心を離反させた。
重倫は家臣が心服しないと見るや
「この野郎、オレを藩主と認めていないな」
と、また「お手討ち」を乱発する。悪循環だった。
和歌山では階級を問わず藩士たちが朝、家族と水盃を交わしてから城に出勤した。いつ重倫に殺害されてもいいように、水盃を交わしてから家を出るのだ。
異常そのものである。
これが、幕府の耳に入った。
幕府は重倫を江戸で謹慎処分にしたが、重倫は
「オレは御三家の当主だぞ!なめんな!」
と、赤坂の紀州藩邸で大きな花火を何発も打ち上げた。
江戸城下での大量の火薬の所持は禁じられている。重倫はそれを承知で赤坂の藩邸から花火を打ち上げたのだ。
こうなると、水野・安藤の両付家老は真っ青になった。
付家老とは幕府から御三家に付けられている家老で、親会社から子会社の役員として出向している人だと思ってもらえばわかりやすいと思う。
水野と安藤は
「このままでは、殿は徳川宗春のようにされてしまう」
と危惧した。
徳川宗春とはかつての尾張藩主で、吉宗将軍に逆らい続けたため藩主を解任され、死後は墓に青網を被せられた。
水野と安藤は幕府と交渉し穏便に重倫を隠居させることで事態を収めた。
重倫は隠居後は穏やかな性格になり、「お手討ち」等の残虐行為はしなくなった。