【2010年6月10日】
一橋徳川家当主・徳川治済が将軍家と尾張徳川家の両方の乗っ取りを企てていた。
と、言ったら、いったいどれだけの人が信じるだろうか?
安永2年6月14日、尾張藩主・徳川宗睦の嫡男・治休が21歳で病没した。このため、治休の弟・治興が嫡男となる。
同じく安永2年10月5日、一橋徳川家に家斉が生まれる。
安永3年3月11日、田安徳川家の賢丸が陸奥白河藩主・松平定国の養子となる。のちの松平定信である。
この養子の一件は治済が田沼意次と結託して実行したとされる。田沼は安永元年に老中格から正式に老中職に就任している。
安永5年5月11日、家斉の弟・治国が生まれる。
同じく安永5年7月8日、尾張藩嫡男・徳川治興が21歳で病没。藩主・宗睦は分家の美濃高須藩主・松平義柄を養嗣子として迎える。のちの徳川治行である。
安永8年2月24日、家治将軍の嫡男・家基が病没。
同じく安永8年7月25日、首席老中・松平武元が67歳で死去。武元は田沼の最大の後ろ盾だった。
同じく8月27日、田沼意次が老中職を罷免される。
天明7年4月15日、家斉が11代将軍に就任。
寛政5年8月23日、徳川治国の子・斉朝が生まれる。
同じく寛政5年8月30日、徳川治行が33歳で病没。
寛政10年4月13日、斉朝、尾張徳川家の養嗣子となり、寛政12年に尾張藩主となる。
こうして見ていくと、一橋徳川家の「おめでた」と尾張徳川家の「おくやみ」の時期が奇妙なまでに一致する。
また、安永年間に将軍候補の1人だった田安の定信と将軍世子・家基が同時に片付けられているのだ。
そして定信の片付けに手を貸した田沼も家治将軍の死後片付けられてしまう。
将軍家は我が子・家斉が、尾張藩は我が孫・斉朝が相続した。徳川治済にとっては笑いが止まらない結果だ。
「おめでた」と「おくやみ」がここまで一致すると、やはり一橋徳川家を疑わざるを得ない。
尾張藩はかつて八代将軍の座を巡って紀州藩と争った際、吉通・五郎太と二代続けて藩主が変死した。
それを思ったとき、病弱の徳川家基に万が一が起きたときのことを考え、治済が手を打ち続けた可能性は十分過ぎるくらい考えられる。やはり将軍職を争う相手は尾張藩なのだ。
「紀州の血を、受け入れるのか…」
寛政10年、斉朝を養子に迎えることが決まると、徳川宗睦は眼を真っ赤に充血させて天を仰いだ。