【2011年10月28日】
三好 胖。
胖は「ゆたか」と読む。
肥前唐津藩主・小笠原長泰の長男だが、唐津藩を相続することは無かった。
唐津藩小笠原家は特殊な家系で、実子相続が無かった。
同族、柳沢、戸田松平とよそから養子をもらって相続させるのが当たり前になっていた。
そもそも、三好 胖の父・小笠原長泰がすでに出羽庄内藩主・酒井忠徳の息子である。
三好 胖はもとの名を小笠原胖之助という。藩主の長男なんだから、小笠原を名乗るのが普通だ。
しかし、胖はうすうす
「オレは家を継げまい」
と気付いていた。
胖の予想通り、父・長泰のあと、唐津藩主は長会・長和・長国と養子相続が続く。相続権者としての胖は完全に無視された。
しかし、相続権者として無視されたことが、胖に自由でのびのびとした発想をすることを許した。
胖は、新撰組に入隊することにした。
新撰組は大名の子弟が入隊しようなど考えない集団である。しかし、胖はその点を特に気にしなかった。
エネルギーを持て余した部屋住みの少年が行き着いた場所、新撰組。しかし、そこは胖にとって人生の終着駅だった。
こうして、小笠原胖之助は三好 胖として新たな人生を歩むことになる。
母成峠の戦いでは唐津から付いて来てくれた同志6人を失い、また、多くの新撰組隊士が東北で戦死した。
それでも、胖は逃げない。最後まで土方に付いて行った。少年・三好 胖ののびのびとした発想の中には蝦夷地で土方と「武士共和国」を建国することがあったのだろうか。
明治元年9月20日朝、胖は土方とともに海路蝦夷地へと向かう。胖の胸にあったものは、部屋住みの暮らしには無かった高揚感だった。
10月20日、胖たち一行は蝦夷地の鷲ノ木に上陸。新政府軍との戦いに備えた。
10月24日、蝦夷地七重村で胖は新政府軍と戦い、散った。
享年17。
胖を新撰組入隊に向かわせたもの。それは自由な発想とは相反する「誠」の一文字だったかも知れない。
藩主の実子でありながら相続権を無視された自分と、薩長に簒奪された幕府を重ね合わせ
「『誠』って、何だ?」
だとしたら、それはあまりに悲しい抗議だ。
自由な発想と「誠」の一文字。
17歳の少年のいのちの代償は、国際法に忠実な「誠」の明治陸・海軍だったのだろうか。