【2011年11月21日】
元禄16年2月4日。
享年34。
今もなお多くの日本人から愛される安兵衛の遺体は丁重に扱われ、伊予松山藩主・松平定直は安兵衛の名前を記入した墓標と銀30枚を泉岳寺に送った。
泉岳寺では当然のことながら安兵衛をはじめとする旧赤穂藩士46人を丁重に葬った。
それから50年。
宝暦2年。
旧赤穂藩士46人の五十回忌が営まれた。
そこへ、
「私は堀部安兵衛の妻です」
と名乗る尼僧が現れた。
この「自称・安兵衛夫人」の出現に江戸っ子は沸いた。
いや、沸いたどころでは無い。とんでもない大騒ぎになった。
現代とは比べものにならないくらい娯楽に乏しい時代のことだ。みんなこの「自称・安兵衛夫人」に飛びついた。
忠臣蔵事件は早い段階から芝居のネタになり、宝暦2年の段階では江戸っ子なら誰もが知っている「物語り」になっていた。
その「誰もが知っている」堀部安兵衛の未亡人が現れたのだ。江戸っ子たちが「一目見たい!」と思うのは当然のことだった。
この尼僧、名をば妙海尼という。
江戸では「妙海尼フィーバー」が巻き起こった。旗本、豪商、学者。みんなして妙海尼の話を聴きたがった。
行けば謝礼と茶菓子が出る。「自称・安兵衛夫人」の妙海尼としては都合良い仕事だった。
旗本や豪商たちは「もっといろんな話を聴かせろ」と言って来る。それに応じるために妙海尼の話す中身もだんだんエスカレートしていく。
ついに妙海尼は
「私は実は吉良邸に送り込まれた女間者7人の中の1人なのです」
とメチャクチャなことを言い出した。
全くの嘘っぱちなのだが、旗本、豪商、そして江戸っ子たちはそんなことお構い無しだ。
結局、この「自称・安兵衛夫人」はデタラメな話をしながら泉岳寺に住み込み、93歳の長寿を全うした。
妙海尼は安兵衛たち旧赤穂藩士の眠る墓の近くに葬られた。
妙海尼はあくまで「自称・安兵衛夫人」である。安兵衛の舅・堀部弥兵衛が切腹前に提出した親類届の娘(安兵衛の妻)の年齢と妙海尼の年齢が一致しないのだ。
だから今日、妙海尼の話したことは誰も信じていない。妙海尼の話したことは、後年痛烈に批判された。
それでも、多くの人たちが妙海尼の話を聴きたがったのは、娯楽が乏しかった時代に忠臣蔵事件が芝居・講談としてしっかりと根付いていたということだろう。