【2012年11月6日】
文化9年8月。
「オレは必ずこの境遇から這い上がって加判之列に加わってやる」
と強く思った。
「この境遇」とは相続した唐津6万石のことで、当時の唐津藩は借金まみれの悲惨な状況だった。
借金まみれの6万石のヒラ譜代。しかも唐津藩主は長崎警備も兼ねるので幕府の要職にも就けやしない。
「加判之列」とは老中職のことで、老中は将軍の奉書(命令書)に加判(サイン)するのでこう呼ばれる。
唐津藩水野家は大坂の住友等から多額の借金があった。
忠邦は借金を返済しつつ、藩庫にカネを残す方法はないかと考えた。
唐津藩では秋のコメの収穫(年貢)の売買を住友等大坂の商人に任せているが、それだと借金と相殺されて藩庫にカネが残らない。
そこで忠邦は
「大坂ではなく、新規の商人に年貢の売買を任せて売買代金を全て藩庫に収めたい。そのうえで、住友たちへの借金は延べ払いで返済したい」
と考えた。
しかし、そんな身勝手なプランに乗ってくれる商人なんているだろうか?
が、忠邦は後ろ向きには考えない。
「この借金まみれのヒラ譜代から抜け出さないと、その先の老中職就任も無いんだ」
忠邦はそう考えた。
ある日、忠邦はこのプランを勘定奉行・吉村弥左衛門に話した。
吉村は
「肥前天草に松坂屋という商人がおりまする。一度会ってみては?」
と松坂屋に話をしてみることを勧めた。
忠邦は吉村の勧めに従い、天草の松坂屋こと石本平兵衛と面会した。
忠邦は平兵衛に対して法外な価格での年貢米買取を要求した。忠邦の要求通りの価格では採算度外視の大赤字になってしまう。
だが、平兵衛は平然と忠邦の話を聴いた。
「老中職に就いて天下を取ろうと思うなら、このくらいの馬鹿じゃなきゃいけねえ」
平兵衛はそう思った。
と、同時に
「このお馬鹿さんに、一丁賭けてみるか」
とも思った。
平兵衛は
「わかりました。水野様、その価格で年貢米買い取らせていただきます」
と返事した。
このとき平兵衛が引き受けた年貢米、5万石。
採算度外視の取引だったが、結果として唐津藩の藩庫に1万両(5億円)を納めることに成功した。
もちろん忠邦は大喜びだった。
これがきっかけで石本平兵衛は水野家に食い込むことに成功し、忠邦も中央へ飛躍するきっかけをつかんだ。