もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

舞鶴公園(福岡城)

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【2011年1月21日】

「ならばそのとき、おまえの左の手は何をしていた!」

関ヶ原の戦いのあと、黒田長政吉川広家調略の功績により筑前一国57万3千石を与えられた。豊前中津12万石から一躍45万石も加増されたのだ。

いえやっサンは筑前一国のお墨付きを与える際、長政の手を握って感謝した。

260万石の大大名が、直接手を握って感謝するのだ。長政は感動してそのことを父・官兵衛に話した。

話を聴いた官兵衛は

「内府殿は、おまえのどっちの手を握ったんだ?」

と言った。

長政が「右の手です」と答えると官兵衛は冒頭のように怒鳴った。

「左の手は何をしていた!」の怒声には

刺せたのに、殺せたのに

という気持ちが込められていた。

黒田官兵衛関ヶ原に際し息子・長政をいえやっサンのもとに送っているが、その一方で倹約して貯め続けたカネを中津領内でばら撒いて兵を集めた。そして、九州の石田系の大名の城を次々と落とし、「あとは島津だけ」というところで関ヶ原で徳川軍が勝利したためタイムオーバーとなった。

官兵衛はこの九州攻略を「最後の大勝負」と位置づけていた。「九州を攻略したら次は天下だ」と思って戦ったが、残念ながらタイムオーバーとなった。

官兵衛は「次は天下だ」と思っていたからこそ、「左の手は何をしていた!」と長政を怒鳴ったのだ。

しかし、すぐに官兵衛は穏やかな官兵衛に戻った。

官兵衛には覚めた一面があった。

官兵衛は

「オレは太閤のためにあれだけ骨折り知恵出して豊前中津12万石だったのに、セガレは吉川広家を調略しただけで57万石か」

と、この結果を面白がった。天下取りを逃した悔しさより、そのことを面白がる覚めた一面が官兵衛にはあった。

官兵衛は、静かに天下を諦めた。しかし、九州での戦いぶりは全国区で知れ渡っていた。

あるとき、官兵衛が京都で茶会を開いた。するとそこにはたくさんの大名や茶人が集まった。関ヶ原以前には考えられないことであった。

黒田官兵衛伊達政宗は「最後の下剋上」だったと言える。

しかし、官兵衛や政宗が天下取りの夢を描いた頃には「拡大より安定」、言い換えれば「既得権を守ること」が求められる世の中になっていた。

悲しいかな、官兵衛も政宗もそんな時期に「最後の大勝負」を挑んだのだ。

官兵衛は晩年、福岡城下で子供たちにニコニコしながらあめ玉を配って穏やかに過ごした。