【2010年8月6日☆】
それは、いえやっサンの六男・松平忠輝を擁立して秀忠将軍から天下を簒奪しようとしたことだ。
自分の婿をまず将軍職に就けて、そのあと政宗政権をつくり上げようという魂胆だった。
政宗の計画に乗ったのが越後高田藩筆頭家老・大久保長安だった。
大久保長安はもともと幕府の銀山奉行だったが、どういう理由かは不明だが越後高田藩筆頭家老を兼任していた。
この長安が陰日向に忠輝擁立のために動いた。
忠輝擁立に協力する者が署名した連判状には
大久保忠隣
と、「どうやったら名前を書いてくれるんだ?」と思うような人物の名前が並んだ。
松平忠直の父・結城秀康は豊臣贔屓だったし、大久保忠隣も本多正純との政争の都合から秀忠将軍の対抗馬と手を組む動機があった。
秀頼の名前があるのがちょっと疑わしいのだが、これは秀頼本人の意思では無くて、「大坂城の総意」という意味合いでの署名であろう。
みなそれぞれ署名する動機はあった。
黒田官兵衛の最後の大勝負は関ヶ原とともに終わったが、政宗の大勝負は関ヶ原のあとに始まった。
そして政宗は支倉常長をヨーロッパに派遣しイスパニヤ・ポルトガルの協力を得ようとした。
「謀反」などというちっぽけなスケールでは無い。まさしく「簒奪」だ。
大久保長安は日頃の酒と女遊びが祟って脳卒中を起こし、そのまま死んだ。いえやっサンは
「大久保石見守の邸宅を捜索せよ」
と命じた。
幕府の役人が捜索すると、床下から大量の金銀が発見された。
いえやっサンは
「大久保石見守、不正蓄財の罪により遺族は全員切腹」
と厳しい処分を下した。
ここまで厳しい処分だったのはこの蓄財が長安個人の贅沢のためでなく、「忠輝擁立」のための資金だったことをいえやっサンが見抜いていたためだ。
のちに大久保忠隣や松平忠輝は改易されているが、政宗は不問に付された。
思えば、蒲生氏郷の会津領一揆に始り、次に和賀忠親一揆、そして松平忠輝擁立と、政宗は常に何かを企んで来た。
しかし、忠輝擁立もまた失敗に終わり、政宗も年貢の納め時を感じ取った。
大坂の陣以降は幕府に従順となり、62万石の安泰を勝ち取った。