【2012年3月5日】
天保13年。
300人もの大人数が土地を捨てて逃げ出したのだ。支配者は責任を問われてしまう。
「武家諸法度」には大名を改易にする理由の一つに「民を亡所にする」という文言を載せている。
逃散はまさしく民が亡所になることで、改易を免れたとしても、幕府から見たその藩・その大名への印象は悪いものになる。
実際、土佐高知藩主・山内豊資はこの逃散沙汰の翌年、天保14年3月7日に隠居に追い込まれた。
事の発端は吾川郡名野川郷を支配していた大庄屋・小野庄右衛門が10年間にわたり郷民から年貢を余計に取り立てていたことにある。
余計に取り立てる。
それは、わざと多く取り立てて余りを庄右衛門が私してたに他ならない。
これに対し、郷民が庄屋2名に苦情を言い立てた。
苦情を聴いた庄屋2名が庄右衛門を問い詰め、ついには排斥した。
藩は「藩が任命した者を排斥するとはもってのほか」と庄屋2名を罰した。
郷民は騒いだ。
「庄屋様はオレたちのために小野庄右衛門を排斥したのに、藩はその庄屋様を処罰した。もう土佐藩は信用ならねえ」
と、逃散を決意した。
もともと、土佐の庄屋は地域密着型の権力者だった。
しかし、山内家が入封して少し経った寛永13年から庄屋の権限を段階的に剥奪していった。
こうして、庄屋の権威はだんだん低下した。
そして天保8年4月、庄屋たちが山内家に対しての反感を拭い得なくする決定打となる事件が発生する。
前浜村という村に伊都多神社という神社があるのだが、そこの神社の祭礼の際、商人や町役たちが席次を無視して庄屋の上座に座ろうとしたのだ。
「無礼であろう!」
庄屋たちは一喝してその場はこれ以上問題は大きくならなかったが、藩の直接支配である商人・町役たちが庄屋の権威を露骨に無視することにもう我慢がならなかった。
天保12年。土佐・長岡・吾川の3郡の庄屋たちが
庄屋同盟
を結んだ。
のちに勤皇の温床となるこの同盟こそが、この300人逃散事件の原点だった。
庄屋同盟の思想の根幹にあったのは
「庄屋は天皇直属の役職である」
という考え方だった。