【2009年2月25日☆】
蒲生忠知は出羽上山4万石から20万石加増されて伊予松山に入封した。
忠知にこれといった功績があったワケでは無く、兄・蒲生忠郷が嗣子を残さず死んだため弟である忠知に蒲生家を継がせるという意味合いで20万石加増した。
忠知は4万石とはいえ兄からは独立した大名だったので、跡を継ぐとなると兄の家臣を全員面倒見なければならなくなる。
無嗣子ということで60万石はお取り潰しとなり、代わりに忠知に20万石が与えられたのだ。
忠知は困った。
兄は60万石だったが自分は24万石なのだ。持高3分の1で兄の家臣たちを引き受けなければならない。
こういった場合、2通りの方法がある。
まず1つ目は、減らされた新しい領地で「高繰り延べて」しまうのだ。
高(=たか。石高のこと)を繰り延べる。
増税のことだ。
播磨姫路42万石の池田光政が因幡鳥取32万石に10万石減らされたときのこと。池田家に対して土井利勝が
「因幡で高繰り延べれば、播磨同然」
と言った。
農民の側からみれば「ふざけんなコラ!」となる。
池田家の姫路での収入は「四公六民」に照らし合わせると16万8千石。
これが鳥取では12万8千石となり、4万石の不足が出る。
この不足分を利勝は「高繰り延べてしまえば良い」と言ったのだ。
高を繰り延べた場合、鳥取での税率は「五公五民」より少し重たいくらいになる。
鳥取の農民は、みんな迷惑だったろう。
2つ目は家臣・藩士の給料カットで、だいたいの減封藩ではこのやり方で忠知もこのやり方をとった。
上山から兄の家臣たちを吸収して松山に移って2年目、早速御家騒動が勃発した。
蒲生家筆頭家老・蒲生郷喜、郷舎兄弟と福西吉左衛門、関 十兵衛、志賀与左衛門の重臣たちの権力闘争が激化したのだ。
この権力闘争は忠知の手に負えないくらい大きくなり、とうとう家光将軍が介入した裁判で決着をつけた。
家光将軍は「福西たちが有罪」と判決を下し、福西は伊豆大島に流罪、志賀は蒲生家追放処分となった。また、関と蒲生郷喜は謹慎処分、蒲生郷舎は志賀同様蒲生家追放処分となった。
蒲生郷舎は関ヶ原では西軍の武将として戦場で活躍したことでも知られる。
こんな御家騒動が起これば本来ならお取り潰しなのだが、忠知の母・振姫がいえやっサンの娘だったことから、お取り潰しは免れている。