もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

熊本城

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【2012年12月3日】

弘化2年12月。

底冷えがして手がかじかむのを堪え、駕籠が通るのを待つ一人の男がいた。

男の名をば

長岡興就

という。

世間一般に長岡五郎左衛門と呼ばれるこの男は、天領・肥後天草御領組大庄屋だ。

天保3年に16歳の若さで大庄屋の職を継ぎ、地元・天草では名庄屋として人気があった。

長岡興就は目当ての駕籠が通ると

「お願いの儀がございまする!」

と、よく通る男らしい声で駕籠の前で平伏した。

「駕籠訴は死罪まであるぞ。それを覚悟の上なのじゃな」

駕籠の護衛の者からこう言われ、興就は顔を上げた。

そして護衛の者から眼を逸らさずに

「天草の百姓の暮らしを守るためならば、この首一つ、何の惜しいことがありましょうや」

と、これまたよく通る声で言った。

「どれ、話を聴こうか」

駕籠から穏やかな顔つきの男が出て来た。興就の目当ての者である。

駕籠から出て来たのは首席老中・阿部伊勢守正弘。水野忠邦にその才を認められ、20代で首席老中に就任した秀才である。

興就は訴状を手渡すと、天草の現状をありのまま話した。

「天草の百姓が安心して農業・漁業を続けられるようにして下され」と。

阿部正弘は「わかった」とだけ返事して興就を天草へ帰した。

そして、興就の天草帰国後、幕府から

「天草百姓相続方仕法」

という法度が出された。

天草領の農民・漁民が安定した生活が出来るよう定めたもので、興就の駕籠訴が阿部正弘を、そして幕府を動かしたのだ。

この一件で、興就は義民としても称えられるようになった。

この長岡興就のルーツは、肥後熊本藩細川家にある。

細川忠興の次男・長岡興秋を祖としている。

長岡興秋は当時の細川家の都合で徳川幕府の人質になる予定だったが、人質になることを拒んで逐電した。

その後、興秋は大坂の陣で豊臣軍として戦い、戦後の元和元年6月6日に父・忠興から無理矢理切腹させられたとあるのだが…

興秋は、実は死んではいなかった。

どういう経緯かは不明だが、興秋は肥後天草の大庄屋になった。興秋のものと伝えられる墓も天草に存在する。

天草領は熊本藩領の隣。父・忠興が我が子をそっと匿った可能性もある。

当時の天草領は天領では無く、寺沢堅高領。ならば、幕府の監視の眼は届かない。

こうして長岡興秋は安住の地を得て「第二の人生」を歩み始めた。そしてその子孫が長岡興就である。