もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

高知城

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【2013年3月15日-1】

元禄5年6月2日。

土佐高知藩主・山内豊昌は幕府の上使から

「前土佐中村藩主・山内大膳亮豊明、このたび罪を赦免し、本家・高知藩へ身柄を引き渡すこととする」

と告げられた。

切腹にならずに済んだわ」

山内豊昌はホッと胸をなで下ろした。

赦免された山内豊明は身柄を土佐に移され、元禄17年1月17日に63歳で死去した。

今日、高知県に大膳様町という地名があるが、これは赦免後をそこで過ごした豊明の官名が大膳亮だったことに由来する。

山内豊明は寛永19年に生まれた。

幼名を九郎太郎という。

関ヶ原大坂の陣島原の乱も知らない、生まれながらの貴族大名である。

のち、土佐中村3万石を相続し、従五位下大膳亮に叙せられた。

元禄2年4月14日。

豊明は綱吉将軍の奥詰に任ぜられた。

奥詰とは綱吉将軍が新設した政治諮問機関で、その奥詰に任ぜられるというのは豊明にそれなりの能力があったことを意味する。

さらに5月3日には若年寄に任ぜられる。

異例中の異例で、外様大名若年寄に抜擢するなんてことは綱吉将軍しかしていない。

これが、豊明を不幸にした。

豊明はわずか7日後に若年寄職を辞職した。

辞職理由は発狂乱心だった。

綱吉将軍は

「この野郎、外様大名でも目をかけてやったのに。辞職するとは何てヤツだ!」

と激怒した。

辞職の2日後には役宅没収のうえ謹慎処分にし、8月3日に土佐中村藩をお取り潰しにした。

豊明は身柄を遠江浜松藩主・青山忠重にお預けとなり、以後、赦免になるまで青山家の厳しい監視下で暮らした。

世間一般に山内豊明の辞職理由は若年寄職に就いたのでは藩の出費がかさむからというものだが、実際は違う。

江戸時代は「いじめ社会」の典型だった。

「外様のクセに、若年寄になるなんて」

先任の若年寄職の連中はそれが面白くないので豊明をいじめ抜いた。

同じことは後年、吉宗将軍の代にも起きた。

大岡忠相寺社奉行に「栄転」すると、先任の寺社奉行の連中が

「大岡どのは、奏者番を兼任しないただの寺社奉行ではないか」

と忠相をいじめ抜いた。吉宗将軍の片腕として長年働いて来た功臣に対してでさえ、こうなのだ。

江戸時代がいかに「いじめ社会」だったかがよくわかる。

生まれながらの貴族大名の豊明にこのいじめは耐えきれなかったのだ。

そのため発狂乱心してしまった。