もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

霞城公園(山形城)

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【2010年4月7日】

江戸時代中期以降、山形は「左遷地」だった。

まず、大老職・堀田正俊の子・正仲が下総古河から出羽山形に転封となった。

堀田正俊は綱吉政権樹立の最大の功労者だったが、時が経つにつれ両者はすれ違うようになり、綱吉将軍は稲葉正休をけしかけ正俊を刺殺させた。また、稲葉正休もまたその場で「口封じ」された。

正俊の子・正仲は家督相続は許されたものの出羽山形に左遷となった。

その翌年には陸奥福島に左遷となり、堀田家は窮乏していった。

堀田正仲のあとも山形は不祥事大名の左遷場所になり続けた。

家重将軍の代になると、首席老中・松平乗邑の子・乗佑が下総佐倉から出羽山形に左遷された。

乗邑は吉宗将軍の首席老中として享保の改革を二人三脚で推し進めて来たが、家重将軍に代替わりしてわずか数日で罷免された。

家督を継いだ乗佑は山形に左遷された。

乗佑が山形藩主だった18年の間に大きな飢饉が山形を襲い、このため松平家では山形城の一部を破却して薪にする一方で城下町に田畑を作る有り様だった。

乗佑は在任18年で三河西尾に転封となり、荒廃した山形は代官支配となった。

次の左遷大名は老中・秋元涼朝で、武蔵川越から山形に左遷された。

涼朝の左遷理由は田沼意次に無礼を働いたというものだった。

あるとき、田沼が涼朝と江戸城の廊下ですれ違った。田沼は考えごとをしていて涼朝に気付かず挨拶をし忘れた。

これを「無礼者め!」と涼朝は咎めた。

田沼は正直に事情を話して丁重に詫びたのだが、涼朝は田沼を「紀州者(新参者)」と思って見下していたため簡単に許さなかった。

困った田沼は家治将軍に申し出た。

家治将軍は「田沼はきちんと詫びておるのに。秋元は行き過ぎだ」と怒り、涼朝に山形への左遷を命じた。

涼朝は山形が荒廃して代官支配になっているのを知っていたためさっさと隠居した。

跡を継いだ永朝が山形に赴任したが、隠居した涼朝は死ぬまで山形に行かなかった。

最後の左遷大名は老中・水野忠邦で、忠邦も涼朝同様山形に赴任すること無く死んだ。

忠邦は天保の改革の失敗の責任を取らされたのだ。

唐津→浜松→山形と転封するごとに水野家は貧乏になっていき、家臣のボヤキも年々増えていった。

山形藩主の変遷を見ると、柳営(人事)での面白い発見がいくつもある。