もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

なめくじ長屋の里菜日記/井伊直該-三年の美学2-

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うなぎがダメでもいわしがあるからな。

いわしを蒲焼きにする。

こいつは足の早い(傷むのが早い)いわしをウマく食おうって知恵だ。

いわしは煮付けて良し、蒲焼きで良し。ありがてえ魚だな。

ああそうだ里菜サン。

こないだの話の続きだ。

掃部頭様(井伊直該)は三年で辞職して楽隠居になったんだがな、綱吉公が薨去されて家宣公が六代将軍になられると、またしても大老職に任ぜられた。大老職の「再登板」なんて滅多に無えんだがな。

家宣公が掃部頭様を大老職に就けたのも綱吉公とおんなじ理由だ。幕府の中を落ち着かせてえからよ。綱吉公は館林藩から将軍家に入った。だから綱吉公の25年間は「館林るーる」で幕政が執られた。ところがこンだァ家宣公は甲府から将軍家に入ったから「甲府るーる」でやろうとするんだ。25年間やってきた「るーる」を変えるんだ。幕府の中は大騒ぎだ。で、里菜サン、家宣公は掃部頭様に「再登板」してもらったってえワケだ。

こンときもやっぱ掃部頭様は「石の上にも三年」でな。「三年経ったらさっさと辞めてやる」って思って「再登板」を引き受けた。

正徳元年2月13日、掃部頭様はまた大老職に就任した。前回のときと違って側用人の間部様(間部詮房)は大老格じゃねえし、家宣公も大老職のことを尊重されるお方だったから危ねえ思いはしねえで済んだんだが、違う意味で雲行きの怪しい三年になっちまった。

大老職に就任した翌年の10月に家宣公が薨去なさったんだ。後継ぎが元服した大人なら良かったんだがな、後継ぎの鍋松様はまだ3つだ。「小児医療」が全然発達してねえ時代の3つの坊やが成長するとも限らねえ。掃部頭様は「イヤな展開になっちまったなあ」って思いながら大老職を続けた。

翌、正徳3年の4月2日だ。鍋松様に将軍宣下があった。これが七代将軍家継公よ。でもよ里菜サン、まだ4つの坊やだから、いつ死んじまうかも知れねえ。だから幕府の外じゃ誰を八代将軍にするってつばぜり合いが始まってたんだ。紀州藩尾張藩が激しく争ったのよ。

この正徳3年って年は幕府にとっても掃部頭様にとってもイヤな年でな。

4月に家継公が将軍になったまでは良かったんだがな、7月26日に尾張藩主・徳川吉通公が、10月18日に吉通公の後を嗣いだ五郎太公が相次いで急死しなすった。里菜サン、家宣公の「甲府ぐるーぷ」は尾張藩ベッタリだったからな。自然と紀州藩とは仲が悪くなった。尾張の殿様が二人立て続けに死んじまったんだ。家継公が成長しねえ限り次の天下は紀州藩だ。こうなると、家宣公に大老職にしてもらった掃部頭様は居づらくなっちまう。それでも「石の上にも三年」だからもうちょっと辛抱しようってな。

明けて、正徳4年。

あれァ確か2月の23日だ。

掃部頭様はやっぱり前回同様家継公と間部様に「いやあ、最近病気がちになっちゃいまして。国許(彦根)に帰って養生します」って言って辞職した。紀州藩の勢力が日に日に大きくなる中で「石の上にも三年」で我慢して三年間を務めあげた。大したモンだ。

里菜サン、どこで掃部頭様が「石の上にも三年」の考え方を身に付けたかはわからねえんだがな、若い頃、彦根藩主になりたての頃は性格がキツくてな。気短で、すぐに家臣に厳しくあたるお方だったんだがな。「石の上にも三年」を身に付けてから名君になった。誰かをすぐに「おまえダメ」って言わずに「ダメなのが出来るようになるまで我慢しよう」ってお方に変わった。

綱吉公の三年間はいのちの危険、家宣公・家継公の三年間は「政治生命」の危険と背中合わせだったが、どちらも三年きっちり務めあげた。面白いお方だな。

綱吉公のときに大老職を続けてたら殺されてたかも知れねえし、家継公のときに大老職を続けてたら「甲府尾張寄り」って「れってる」貼られて自信も彦根藩も処罰されたかも知れねえ。三年ってえのは味のある年数だなって思うぜ。

掃部頭様が辞職した翌月に絵島・生島の一件が事件になった。あとは雪崩のように八代将軍の流れが紀州藩に傾いたのよ。

掃部頭様は紀州の吉宗公が八代将軍になるのを見届けてこの世を去った。

享保2年4月20日、享年62だった。

かんぼちゃすいーとぽてともいいんだが、オレァりんごの入ったすいーとぽてとも好きだぜ。

里菜サン、また。