【2011年4月22日】
「越後高田藩主・松平越後守光長、家中不統一により所領収公。身柄を伊予松山藩にお預けとする」
天和元年6月22日、越後高田藩松平家の御家騒動の裁判に綱吉将軍が直々に判決を言い渡した。
6年前、藩主の後継者問題に端を発した越後騒動は高田藩お取り潰しで決着がついた。
もともと、この御家騒動の裁判は大老職だった酒井忠清が裁判長を務め、一度は決着がついていたものだった。それを、綱吉将軍が蒸し返して裁判をやり直した。
いまの時代でさえ「一事不再理」なのに、綱吉将軍は敢えて裁判をやり直した。
越後騒動は松平光長の嗣子・綱賢が病死したことに端を発する。
光長の嗣子に小栗掃部を推すグループと永見万徳丸を推すグループがいた。掃部も万徳丸も光長と血が繋がっているが、万徳丸のほうが血の繋がりが濃かった。
このため、小栗掃部を推すグループを「逆意方」、永見万徳丸を推すグループを「御為方」と呼んだ。「逆意方」の筆頭は小栗美作、「御為方」の筆頭は永見大蔵、いずれも高田藩の家老である。
永見のグループを「御為方」とするのは、永見大蔵が光長の異母弟であるためだ。小栗美作は光長と直接血の繋がりを持たない。が、美作の妻は光長の妹・おかんで、おかんの生んだ子が掃部だ。
後継者問題は永見万徳丸で決着がついた。万徳丸は光長のもう一人の異母弟・永見市正の息子で、光長との血の繋がりから掃部よりも正統性があると判断されたためだ。
しかし、騒動はむしろここからだったと言える。
まず「逆意方」が大老職・酒井忠清に「御為方」の違法行為を訴えた。
酒井忠清が裁判長を務めた最初の裁判では「御為方に非あり」として「御為方」のみを罰した。
しかし、「御為方」も黙ってはいない。
「御為方」は幕府に「最初の裁判は逆意方が御大老に“袖の下”を渡したための不当判決だ」と訴え出たのだ。
綱吉将軍は裁判のやり直しを決めた。しかし、やり直しの裁判はかなりいびつなものだった。
審理時間わずか30分。
しかも裁判の際に提出された報告書は松平光長と犬猿の仲である老中職・阿部正武が作成したものだった。これでは公平な裁判は出来ようはずがない。
最初の裁判で使われた報告書は大目付・渡辺綱貞が作成した公平なものだった。しかし、綱吉将軍はこの報告書を採用していない。
綱吉将軍は高田藩を取り潰すためにわざと裁判をやり直したのだ。
綱吉将軍は思惑通り高田藩を取り潰した。