おい左平次、アリサのヤツ、今日は珍しく鍋じゃなくて肉持ってこっち来やがるぜ。
あれァ雉だな、雉。
雉丼に油揚げなんてトンチキな食い方すんのはアリサだけだろうけどな。
左平次、雉丼のタレ、あれまだ残ってたよな?
まあ雉丼の油揚げだからな、カリッカリに焼いたの添えてやったほうがうめえかもな。
おっと。
里菜サン、待たせて済まねえ。
ああ、おとついきのうと筑後の話だったからな、で、そこにあんのは左近将監様(立花宗茂)の絵と剣菱か。
ああいいぜ。最初っから剣菱出されたんじゃイヤだとは言えねえよ。
おい左平次、これから左近将監様の話するから、おめえちょっとアリサと外見張ってろ。
ま、里菜サンのこったから、今日は「何で左近将監様だけが関ヶ原のあと旧領を回復出来たの?」ってことを聴きてえって言うんだろ?
二つ、理由がある。
一つは左近将監様御自身のお人柄と能力。
一つは豊臣方に渡したら厄介なことになるから。
里菜サンも知っての通り、左近将監様は関ヶ原では石田方に付いた。石田方に付いたんだから当然お取り潰しだ。筑後柳河13万石は田中吉政様に与えられて左近将監様はお大名から浪人になっちまった。
浪人になった左近将監様は数人の供の者と京都で貧乏暮らしを続けた。貧乏暮らしだったが、主計頭様(加藤清正)や島津家、それに京都の商人たちがこっそり食い物や銭を左近将監様に援助し続けたから飢える心配は無かった。
里菜サン、主計頭様は同じ武将として左近将監様を尊敬してたし、島津は関ヶ原の際、筑後までは立花軍に守られて安全に落ち延びることが出来た。島津は左近将監様から見たら親の仇なんだがな、里菜サン、左近将監様は「弱っている者を討ち果たしても、それは笑い者になるだけだ」って言って親の仇のこととは関係無く島津軍を筑後まで守ったんだ。
島津の連中はこの恩を忘れちゃいなかった。そンで島津は左近将監様が京都にいる間、ずっと食い物の援助を続けたのよ。
主計頭様や島津だけじゃねえぜ。京都の商人もこっそり銭渡してた。里菜サン、昔っから京都の商人はどんなヤツだろうと骨のあるヤツには親身になったんだぜ。
あれァ慶長8年だったな。
里菜サン、この年は秀忠公が二代将軍におなりなすった年だが、権現様が本多平八郎様(本多忠勝)を通して「立花どの、これからは徳川で生活の面倒を見ます。江戸に来てください」って左近将監様を江戸に招いた。徳川に「すかうと」したってこった。
左近将監様一行は江戸高田(いまの東京都新宿区)の宝祥寺って寺に入ってそこで暮らし始めた。食い物から暮らしの掛かり(生活費)まで全て幕府が面倒見た。
ここで面白れえのはな、権現様は直接左近将監様には会わずに、食い物や銭を渡すのは全て平八郎様だったってことなんだ。権現様だって武士だ。武将として心が通い合うのはてめえじゃなくて平八郎様のような武骨者のほうがいいんじゃねえかってな。
権現様の読みは当たった。左近将監様は平八郎様とすっかり打ち解けていつでも徳川に来てもらえそうな雰囲気になったのよ。
翌、慶長9年。
幕府は左近将監様に5,000石与えて召し抱えた。さらに2年後の慶長11年には陸奥棚倉に1万石与えられて大名復帰だ。さらに4年後の慶長15年には2万石加増されて3万石になった。
里菜サン、権現様は秀忠公に話相手になるヤツが欲しかったんだ。無論、世間話や笑い話じゃなくて治世や合戦についての話相手だ。秀忠公の側には大炊頭様(土井利勝)がいたがな、ちょっと若かった。そこでいろんな経験をたくさん積んでる左近将監様がいいだろうってな。敵味方関係無く好かれるお人柄と、合戦上手で「鬼立花」って呼ばれたくらいの能力。この二つを権現様は高く買ったんだぜ里菜サン。
慶長19年、権現様は珍しく左近将監様に「このまま徳川に付いて大坂攻めに加わってほしい」って頭ァ下げた。権現様は人の心の「万が一」を怖れたのよ。豊臣方は旧豊臣大名に片っ端から声掛けてたからな。真田・毛利(毛利勝永)・長宗我部、みんな大坂城に入ったのを権現様は知っていなすった。何より権現様が怖れたのが「立花は真田たちよりずっと有能だ」ってことだ。そンで権現様は左近将監様に頭ァ下げた。日本一偉いお方が頭ァ下げるんだ、左近将監様もイヤとは言えねえ。
左近将監様は冬の陣・夏の陣ともに秀忠公の陣にあって参謀を務められた。夏の陣のときには大野治房軍の行動を言い当てて、「秀頼公は御出陣なさいますまい」って言い当てた。また、左近将監様御自身も毛利勝永軍を散々に討ち破って勝利に貢献なさった。
元和6年、筑後国主の田中筑後侍従忠政様が無嗣でお取り潰しになると、筑後のうち久留米21万石は有馬玄蕃頭様(有馬豊氏)に、柳河11万9600石は左近将監様に与えられた。ま、秀忠公なりの左近将監様への恩返しだったんだろうな。
里菜サン、20年で元いた所領に返り咲きだ。
こんなお大名は左近将監様ただお一人よ。
柳河の領民はみんな左近将監様が大好きだったからな。20年前がきんちょだった若いのが「殿さんのことはお父ちゃん・お母ちゃんから聞いとるばい。みんな殿さんのこと好いとっとよ!」って笑顔で出迎えた。左近将監様は「ありがとう、ありがとう」ってこれまた笑顔で馬上から手ェ振った。
石高もちょこっと減ったが、20年前とほぼおんなじだ。里菜サン、こういうの里菜サンの時代じゃ「さぷらいず」って言うんだろ?
雉丼のタレは甘じょっぱいからいくらでも食える。
雉も剣菱に合うからな。
ん?
里菜サン、そいつァ山陽先生(頼 山陽)の「碧蹄駅」じゃねえか。
そいつはこの次に話してやるよ。
里菜サン、また。