もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

なめくじ長屋の里菜日記/大道寺直秀-津軽も福島も継げなかった男-

おい左平治、あれァのぞみじゃねえか。

しかしまあ、あんなに毎日毎日きゅうりばっかしバクバクバクバク食って、よく飽きねえな。

そのうちからだが緑色になっちまうんじゃねえか?

ああ里菜サン、待たせて済まねえ。

あの女の子、誰って?

あれァな、のぞみって言ってな、長屋に住んでる中西源之進って浪人の娘だ。源之進はもとは深谷藩士だったんだがな、深谷藩が廃藩になったときに主人(酒井忠勝)に付いて行かねえで浪人になった。

何でって?

そんなこと知るか。

のぞみはこの長屋に流れ着いたときからああやって毎日毎日きゅうりばっかしバクバクバクバク食ってやがるんだ。

のぞみはちょいと変わっててな。あいつが「今日雨降るよ」って言うとホントに雨降りになるんだ。長屋の連中はのぞみのおかげで洗濯物干すときに助かってるんだ。

何でえ里菜サン、今日は剣菱が一本じゃなくて二本か。

よっぽどアブねえお大名の話してくれろってか?

あん?

大道寺石見(大道寺直秀)様だ?

ダメだダメだ。

そのお方はな、満天姫様の御子息様だ。

そンなの里菜サン、剣菱二本で打ち首なんざ割りに合わねえよ。

何でえ里菜サン、懐から何を…

おっ!

くじらじゃねえか。

よしわかった。

おい左平治、これから満天姫様の息子の話すっから、おめえちょっと表見張ってろ。

大道寺石見様は慶長11年に福島伯耆守(福島正之)様と満天姫様との間にお生まれになった。

伯耆守様はあの福島左衛門大夫(福島正則)様の甥でな、左衛門大夫様になかなか実子が生まれなかったから養子になった。

カミさんの満天姫様は下総関宿の松平康元様の姫君でな、権現様の養女として伯耆守様に嫁いだ。

この縁組は太閤が薨去したすぐあとから進められてたんだがな、太閤薨去の年の慶長3年、左衛門大夫様に実子が生まれたんだ。この坊やがのちの福島備後侍従(福島忠勝)様だ。

里菜サン、「たいみんぐ」の悪いのが重なっちまってな。実子が生まれたから実子に家を継がせてえ。でも、権現様との縁組の話も進んじまってる。権現様に「やっぱこの話はダメだ」なんて言う力は左衛門大夫様には無えからな。

そンで翌年の慶長4年に正式に縁組した。伯耆守様と満天姫様は仲睦ましい夫婦だったんだがな、左衛門大夫様からみたら「オレの実子に家継がせてえのにな」ってモヤモヤが残っちまう。

で、慶長11年だ。

満天姫は伯耆守様の御子息様をお生みになられた。石見ってえ名前の坊やだ。

これで左衛門大夫様はますます困った。伯耆守様のカミさんは権現様の養女、しかもそのカミさんが男子を生んだ。これじゃ実子の備後侍従様に家を継がせられねえ。

石見坊やが生まれた翌年の慶長12年、左衛門大夫様はとうとうやっちゃいけねえことをやっちまう。

左衛門大夫様は幕府に「伯耆守は発狂乱心。幕府にて厳しく御処分あるべし」って訴え出た。もちろん口からデマカセの嘘八百だ。

でもよ里菜サン、関ヶ原で勝てたのは左衛門大夫様のおかげだからな。幕府としても訴えを無視出来ねえ。そンで幕府は伯耆守様に「発狂乱心により幽閉」って処分を命じた。いきなり幽閉された伯耆守様は抗議の断食やって餓死しちまった。享年24だった。

死別ってことで満天姫様は徳川に送り返された。石見坊やも一緒にな。

そのあと本当の実家の関宿でしばらく過ごした満天姫様に、こンだァ陸奥弘前津軽越中守(津軽信枚)様との再婚話が持ち上がるんだ。これまた権現様の養女としてな。

津軽としては幕府とのつながりが欲しいとこだったから再婚のお姫様でも喜んで引き受けた。

満天姫様は石見坊やを連れて弘前に再嫁した。で、越中守様との間に信英様をお生みなされた。

寛永8年だったな。

越中守様が亡くなられて、ちょっとした騒動が起きた。越中守様には前の正室・辰姫様が生んだ信義様と満天姫様が生んだ信英様と、それから石見坊や改め大道寺直秀様の三人が後継ぎ候補だった。

辰姫様は越中守様が満天姫様を迎えるときに正室から側室に格下げされたが、それでも信義様は長男だ。満天姫の生んだ信英様は正室の子だが次男だしまだ若かった。

信義様も信英様もまだ歳が若かったからな。家老連中が心配した。で、信義様・信英様で後継ぎが決着しねえときの「隠し球」として大道寺石見直秀様の名前が挙がった。石見様の母親は満天姫様だ。しかも満天姫様は権現様の養女として越中守様と縁組したんだから、石見様は権現様の御孫様だ。同じく満天姫様から生まれた信英様が成長するまでの「わんぽいんと」で津軽5万石を継がせてもいいじゃねえかって声が出始めた。

でもよ里菜サン、オレたちの時代は「れじてましー(正統性)」が大きくものを言う時代だった。確かに石見様は満天姫様の生んだ子だから幕府から見たら問題無えが、津軽自身から見たらあまりに「れじてましー」に欠けてらァな。

津軽の連中は長男の信義様を後継ぎにするってことに決めたんだ。信英様は5,000石の御旗本になるってことで一件落着だった。が、石見様は落着しねえ。「5万石継げなかった」ってモヤモヤだけが残った。

そこへだ里菜サン、信濃川中島の福島家に跡取り息子がいねえぞって石見様に吹き込んだヤツがいてな。川中島の福島家は左衛門大夫様が広島藩改易のあとに与えられた土地で、こンときは左衛門大夫様の下の息子の正利ってえのが3,000石の領主だった。

津軽がダメなら川中島だ。石見様はそう思った。てめえはもともと福島伯耆守の息子。川中島3,000石を養子相続する「れじてましー」は十分にあるだろうってな。

満天姫様も養父の大道寺直英様も「そんなバカやっちゃなんねえ」ってさんざん止めたんだがな、聞かなかった。

あれァ寛永13年の9月24日だったな。

これから川中島行くからって満天姫様に挨拶行って、そこでメシ食って酒飲んだらその場でいっぱい血ィ吐いてそのまんまポックリ逝っちまった。

大道寺石見直秀、享年31。

満天姫様は津軽に行っても権現様の養女だ。たとえ我が子でも幕府から睨まれることをやらかすんならって、心を鬼にして一服盛ったんだろうぜ。

大道寺は津軽の家老だから、欲出さねえで津軽の家老として生きりゃ良かったんじゃねえのかなって思うんだがな。

まあでも里菜サン、みんな殿様になりてえって、そう思うもんなんだ。

津軽も福島も継げねえまんま、メシと酒に毒盛られてな。

里菜サン、何がしあわせかなんて、これじゃわかんねえ話だな。

ああ里菜サン。

今、左平治が銀シャリ炊いたからな。

コメは津軽、そっちのきのこのしょうゆ漬けは川中島のきのこだ。

好きなだけ食ってってくんな。

里菜サン、また。