【2009年12月16日】
「アレは猿の祟りよ」
大老職・土井利勝は冷たく、そして吐き捨てるように言い放った。
「アレ」とは駿河大納言・徳川忠長の奇行を指す。
徳川忠長改易の理由は2つあった。
1つ目は大御所秀忠に宛てて出した「強請状(ゆすりじょう)」だ。
忠長は大御所秀忠に対して
「100万石か、大坂城」
どちらか寄越せ、と強請ったのだ。この手紙で大御所秀忠は気分を害した。
大御所秀忠は家光将軍よりも忠長を可愛がったが、この「強請状」で大御所秀忠の忠長に対する視線が冷たいものに変わった。
2つ目は土井利勝が「アレは猿の祟り」と言った奇行だ。
「猿の祟り」とは忠長が浅間神社で猿狩りをしたことを指す。猿狩りをした理由は様々に取り沙汰されるが、浅間神社が猿を祀っている神社であることから忠長の奇行は「猿の祟り」と思われた。
猿狩り後、忠長に奇行が出始めた。
ある日、忠長は駕籠に乗って領内を視察に出た。
忠長は駕籠の中から突然脇差で駕籠掻きのおしりをブスリと刺した。
「ひいっ!」
いきなりおしりを刺された痛みとショックで駕籠掻きは駕籠を捨てて逃げ出した。
そして後日、忠長改易の決定打となる奇行が出る。
忠長が領内に狩りに出たときのことである。その日は生憎の雨で、少し肌寒かった。
忠長の家臣に小浜七之助という者がいた。
七之助は「殿のからだを温めよう」と、まず民家を借りて湯を沸かしはじめた。
「温かい汁物でも」そう思って七之助は自らが湯を沸かそうと火吹き棒を口に加えて首を伸ばしたその瞬間、事件は発生した。
忠長が七之助の首を一刀で斬り落としたのだ。
親切を殺害という形で返した忠長。報いはすぐに跳ね返って来た。
小浜七之助の家族が幕府に訴え出たのだ。
七之助の家は旗本なので、話はすぐに幕府上層部まで達した。そして土井利勝の「アレは…」の発言に繋がる。
事ここに至って、大御所秀忠は忠長の処分を決断した。忠長は甲斐府中城(甲府城)に蟄居させられた。
このあとどう処分するか。大御所秀忠はそれをきちんと決めずに死んだ。きちんと決めなかったことが、結局忠長のいのちを縮めた。
家光将軍と土井利勝は忠長を改易し、上野高崎で自害させた。