もずの独り言・はてな版ごった煮

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松江城

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【2012年10月4日】

寛永10年9月24日。

出雲松江藩主・堀尾忠晴死去。

堀尾忠晴には嗣子が無かったため、堀尾家では忠晴の従兄弟・宗十郎をもって家督相続を願い出た。

が、首席老中・松平信綱の「認めない」の一言で却下。松江藩は無嗣収公となった。

翌、寛永11年。

欠国となった出雲・隠岐2ヶ国24万石の太守に若狭小浜から京極忠高が入封した。

この人事に「意外だ」と思う者が多数いた。

「意外だ」とするのには、当然理由がある。

寛永7年3月4日。

京極忠高の正室・初姫死去。享年29。

この日、忠高は妻が危篤状態であることを知っていて江戸屋敷で相撲大会を催した。

相撲観戦中の忠高に初姫の側近から「初姫死亡」の一報が入るが、忠高の側近が受け付けない。

初姫の側近は江戸城西之丸にも「初姫死亡」の使者を出していて、こちらはすぐに対応して土井利勝酒井忠世永井尚政たち幕府の老職連中が京極家江戸屋敷に駆けつけた。

このときの様子について、豊前小倉藩主の父・細川忠興は藩主(三男)の忠利に

「初姫様末期の日、京極邸では相撲が催されていて、奥から初姫危篤の使いが何回も来たのだが側近が受け付けない。一方、江戸城西之丸へも危篤の使者が走り、こちらは一報を聞いた土井利勝たち老職連中が京極邸に駆けつけた。老職連中の顔を見るや力士や招待客たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ去った。招待客の中には青木重兼たち然るべき立場の人間が数人いて、酒井忠世たちが叱りつけたという。馬鹿馬鹿しいことだ」

と手紙を書いている。

手紙の中に出て来る青木重兼とは摂津麻田藩嗣子で、のちに仏教に深く帰依する名藩主である。

このことを知った大御所秀忠は激怒した。

大御所秀忠は

「葬儀は徳川家で執り行う。京極家の葬儀への参列と諸大名の焼香・香典は一切受け付けない」

と通達した。

異常である。大御所秀忠の怒りの大きさがわかる。

しかし、それでもなお、京極忠高は若狭一国から出雲・隠岐二ヶ国へ栄転した。

何故か?

それは、忠高の父・高次の関ヶ原の戦いにおける軍功によるものである。

京極高次関ヶ原の戦いの際、立花宗茂率いる石田方の軍勢1万5千を近江大津城に釘付けにしたのだ。

薄氷を踏む思いで勝利した徳川軍。

幕閣の中にいる関ヶ原の生き残りたちはこの恩を忘れていなかった。

そのため、初姫のこととは関係無く京極忠高に出雲松江24万石を与えたのだ。