【2009年11月27日】
さんさ時雨か
萱野の雨か
音もせで来て
濡れかかる
しょうがいな
これは岩手県に伝わる民謡で『さんさ時雨』という。
『さんさ時雨』は伊達政宗が芦名義広を摺上原の戦いで破ったときに作られた謡だ。
仙台藩は水沢や一ノ関に領地を持っていたので、『さんさ時雨』が岩手県に伝えられたとしてもちっとも不自然では無い。
伊達政宗と芦名義広。
東北の覇者の座を賭けて両者は猪苗代湖の北岸、摺上原で戦った。
伊達軍21,000
芦名軍18,000
やや伊達軍のほうが数が多いが、摺上原は芦名軍の「ホームグラウンド」なのでその点でこの兵力差は互角と変わらない。
戦いは午前中は芦名軍の圧倒的優位だった。
「会津の名門」は「奥州の名門」とイコール。本陣で戦況を見つめていた政宗は改めて芦名軍の強さを思った。
が、政宗はすでに芦名家内部に調略の手を加えていた。
午後に入り、芦名軍から裏切りが相次いだ。
芦名軍は総崩れ。その退却する芦名軍にもう一つの敵が立ちはだかった。
日橋川という川がある。
この川を渡らないと、黒川城(のちの会津若松城)には帰れない。
ところが川は前日までの雨で増水している。
芦名軍の犠牲者1,000人のうち、ほとんどが日橋川での溺死者だった。
伊達軍は戦勝を祝って『さんさ時雨』を作った。
『さんさ時雨』は日橋川を増水させた雨を謡ったものだ。
もともと、芦名家は「親佐竹」「親伊達」の二派閥に加え、「佐竹でも伊達でもない」根っからの「芦名武士」や「無党派」等派閥やグループだらけで統率が取れていなかった。これは、芦名義広が佐竹家から養子に来たことによる。芦名義広の実兄は佐竹義宣、石田三成の親友だ。
派閥だらけのところに来て、政宗が調略をかける。バラバラに綻ぶのは時間の問題だった。
恥ずかしがり屋の片目の雀を、堂々とした片目の鷹にした摺上原の戦い。
ただ、惜しむらくは政宗は生まれて来るのが少し遅かった。