【2009年11月20日】
「森伯耆守衆利、発狂乱心によって所領収公」
美作津山藩主・森 衆利は江戸への参勤の道中、伊勢桑名で発狂乱心してしまい、桑名藩からの通報を受けた幕府が津山藩を取り潰した。
これは元禄10年のことで、津山城受け取りの役目を広島藩浅野家が務めた。
津山藩は186,000石なので人材は多くいたが、浅野家の眼に止まった者が2人いた。
神崎与五郎則休
茅野和助常成
この2人が浅野家の眼に止まり、「分家の赤穂藩に仕えてみないか?」とスカウトされた。
2人は赤穂藩に仕えた。
一度失業したら再仕官(再就職)がほぼ絶望的だったこの時代、2人は幸運にも再仕官が叶った。
が、喜びも束の間。4年後にまたしても2人は職を失う。
赤穂藩主・浅野長矩が江戸城松之廊下で吉良義央を相手に刃傷沙汰を起こしたのだ。
「城地没収、即日切腹」
綱吉将軍は赤穂藩を取り潰した。
赤穂城明け渡しのあと、神崎・茅野の両人は迷わず大石内蔵助に同調した。
「たとえ4年間であっても、浅野様はいのちを繋いでくれた」
表向きのきれいごとの「義」とは違う、下級藩士の真っすぐな「筋」を2人は通した。
神崎は江戸では善兵衛という偽名で潜伏し、扇子売りや小豆売りに化けて吉良邸に入り込んだ。
そして神崎は吉良の顔を直接見る機会を得た。
「吉良の額には、あのときの傷が残っている」
大石たちを悩ませたことの一つに「もし、吉良が影武者を使ったらどうする」ということがあった。神崎が吉良の顔を確認出来たことでその悩みは解消された。
地味な働きだが、写真だとか映像だとかが無い時代のこと、神崎が額の傷を確認したのは大きかった。
神崎は津山藩に仕えていた頃から大酒飲みだった。神崎は江戸での潜伏生活を振り返り、
「酒が切れたらどうしようと心配だったが、仲間が酒代を工面してくれたのでどうにか毎日飲むことが出来た」
と話している。
神崎・茅野の両人は討ち入りのあと水野家にお預けとなった。
藩主・水野忠之は人の気持ちのわかる大名で、吉宗将軍同様「赤穂贔屓」だった。水野家は細川家同様浪人たちを切腹の日まで手厚くもてなした。
浅野家取り潰しのあと、赤穂には森家が2万石で入封した。
歴史の皮肉を感じる。