【2009年4月16日】
津軽家のルーツ。
奥州藤原氏の子孫に、関白近衛家の血がブレンドされたものだといわれる。
だから津軽家では
「我等は近衛家と縁続き」
と言い張った。
新井白石もこれを信じて『藩翰譜』に
「世に伝ふる所は近衛殿の庶流と云ふ。何れの時にか、津軽の地に流されさせ給ひし人の、此処にて設けられし息男の後なりと云ふ」
と書いている。
白石のいう「近衛殿」とは近衛尚通のことで、都での戦乱から逃れるため関白に就任する前に4年ほど津軽の大浦城に転がり込んでいた。
だいたいお公家さんというのは中国・四国に転がり込むのが相場なのだが、尚通はその点ちょっと変わっている。
で、尚通はそこの城主の大浦光信の娘を抱いた。
当時の常識ではそれはちっともおかしく無い。「貴種」の子種を欲しいと思うのが当時の常識なのだ。現代の常識を物差しにしてはいけない。
光信の娘は政信・為活の2子を生んだ。
まもなく尚通は都に帰って行ったので、この2人の子は光信が育てた。
光信の子・盛信が跡継ぎを残さず死んだので、光信は政信に跡を継がせた。
と、書いてきたが、この事実が近衛家サイドに記録されているかというと、記録されていない。
「何だ、嘘っぱちか」となると、嘘っぱちだと言い切れなくなる事態が発生する。
弘前藩三代目・信義が幕府大学頭・林 道春に
「近衛家と縁続きのこと、嘘ではあるまいな?」
と問いただされたことがあった。
何故救いの手を出したかなんて、オレは知らない。
近衛家が救いの手を出したことで、津軽家のルーツは冒頭書いたように奥州藤原氏と近衛家のブレンドということになった。
土着の豪族が見栄張って偽系図を作る。
そこに近衛家というビッグネームが入る。
ここまでスケールのデカい見栄っ張りなんて、痛快じゃないか。