【2009年6月1日】
池田継政。
分家の備前天城3万石の領主で、初め池田保教と名乗った。
岡山藩を相続した継政は23歳のとき結婚した。お相手は陸奥仙台藩主・伊達吉村の娘の和姫だ。和姫このとき17歳。
良好な夫婦関係で、結婚して5年目に男の子に恵まれた。のちの池田宗政だ。
宗政が生まれて10年後、継政は一方的に和姫を離縁した。大騒ぎになった。
日本の江戸時代に限らず、身分制度・階級社会の国々はその身分、その階級ごとに閉鎖社会だった。だからちょっとしたことが大騒ぎとなる。
元文2年10月5日午前11時。
芝汐留の仙台藩上屋敷に二人の旗本が岡山藩池田家の使者として訪れた。
牧野成煕と池田数馬の二人で、二人は池田家とは交際があり継政と和姫の婚約祝いにも出席している。
仙台藩家老・大條監物が応対すると、牧野・池田両人は「一」と書かれた書状を出して読み上げた。
「奥方(和姫)については近年、気苦労になることが多く、いろいろ手を尽くしたけれど聞き入れてくれない。ついには心労のあまり私が病気になってしまった。それで奥方を離縁した。ついては今後、池田家と伊達家は絶交し、利根姫への挨拶も遠慮させていただく」
大條監物はギョッとした。内容がまともでは無い。
大名同士の離婚はよくあることだったが、一方的に離縁したうえ家同士の付き合いまで絶交するなんてケースはまず無い。
「これは異常だ」
大條監物はそう判断して「一」の書状を預かり、仙台藩主・伊達吉村に手渡した。
伊達吉村は監物に
「もし、私の娘に落ち度があっての離縁なら、私も素直に受け入れよう。が、ここに書かれている『和姫のせいで病気になった』という部分が納得いかない」
と言い、
「おまえ、納得いく説明をしろと言って来い!」
と監物を怒鳴った。
怒鳴られた監物は「何もオレに逆ギレしなくても…」とムッときたまま牧野・池田両人に対し吉村の言葉を伝えた。
そして午後3時。
今度は「二」と書かれた書状を持って二人は再び芝汐留の仙台藩上屋敷を訪れ、また読み上げた。
「先程の吉村どのの問いは家老があとで殿(継政)に取り次ぐとのことである。が、離縁届については以前から離縁するつもりであったため、先に老中へ提出した」
これを大條監物から聞いた吉村はついにキレた。
「和姫の父親であるこの私に何の挨拶も無しに、離縁届を老中に提出したのか!」
離縁届が提出されてしまった以上、もうどうにもならない。吉村は改めて伊達家として離縁届を老中に提出した。
ただ、吉村には孫思いの優しい一面があった。
和姫のことで孫の宗政が岡山藩の中で殺害を含めておかしな扱いを受けるかも知れないと不安に思い、吉宗将軍の側用人・加納久通に宗政の保護を求めた。
また同様の働きかけを伊達宗村夫人・利根姫もしている。利根姫は「一」の書状に出て来る女性で、紀州藩主・徳川宗直(吉宗将軍の従兄弟)の娘で吉宗将軍の養女として仙台藩に嫁いだ。
利根姫は久通に
「舅どの(吉村)は『離縁というのは珍しいことではないから、離縁そのものに文句を言うつもりは無い。が、あれだけ夫婦仲が良かったのに、継政が和姫のせいで病気になったと主張している点について、未だに納得のいく説明をしていない』と言っている。また継政は離縁後ますます健康を害し、下屋敷に引きこもったまんまだ。今度の離縁は近親者にさえ何の相談も無かったため、誰にも相手にされなくなっている」
と伝えた。
この離縁、実は和姫には何の罪も無い。
和姫の兄・伊達宗村に罪があった。
宗村の妻・利根姫が吉宗将軍の養女である以上、マメに挨拶に出向くのは大名制度・階級社会の中の常識であった。この挨拶に出向くたびに、伊達宗村は継政をネチネチといじめた。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」のこの時代、継政のストレスは相当なものだったろう。だから「病気になった」のだ。
「一」の書状の「奥方については」の部分を「宗村については」と置き換えると、全ての事情が見えてくる。
継政はよっぽど宗村にやり返したかったろう。が、宗村の妻の実家は幕府なのだ。
「和姫と離縁すれば、利根姫への挨拶に行かなくて済む」継政はそう思った。そして離縁・絶交という道を選んだ。
伊達吉村は息子・宗村が継政に対していじめをしていることに気付いていた。離縁騒動の1ヶ月前、吉村は宗村に対し「おまえのは度を越している。改めよ」と注意している。だが、この結果となった。
離縁された和姫は何一つとして不満を漏らさず、再婚せずに死んだ。おそらく和姫は離縁の事情・理由を理解していたのだろう。
「和姫のことは好きだ。でも私は伊達宗村に耐えられなかった」
継政は和姫が死んだ30年後に死んでいる。継政もまた、再婚せずに独身を通した。
伊達宗村は継政が死ぬもっと前に39歳で死んだ。やや早い年齢で死んだのは行いの悪さからかも知れない。
天明4年6月、池田・伊達両家の和解が成立した。元文2年の離縁騒動から47年目のことだった。
この離縁騒動は、人付き合いと人の気持ちの難しさを物語っている。
それは今も昔も変わらない。