【2009年4月3日☆】
大岡出雲守忠光。
大岡忠相の親戚だ。
家重将軍の側用人として最終的には若年寄にまで出世し、武蔵岩槻2万石を与えられた。
忠光はちょっと人とは違う能力で出世した。
それは、
家重将軍の言葉を理解出来る
というものだ。
家重将軍は生まれつきからだが弱かったうえに、言語障害と頻尿があった。
今の社会とは政治体制がまるきり違う。独裁者(将軍)に言語障害があったら、政治が滞ってしまう。
老中職の中に、家重将軍の言語を聞き取って理解出来る者はいなかった。
側近の中にも、やはり家重将軍の言語を聞き取って理解出来る者はいなかった。
ただ一人忠光だけが家重将軍の言葉を理解出来たのだ。
こんな話がある。
家重将軍がまだ将軍職に就く前、庭園を散歩していた。
侍女に何事かを指示したのだが、何を言っているのかがわからない。
侍女は困った。
聞き返したところできちんとした言語では無いのでまたわからない返事が返ってくるし、理解しないから家重将軍は癇癪を起こす。
侍女は側にいた者に「これ、忠光どのをお呼びしてまいれ」と言った。
忠光が駆けつけるまで、この言語の不自由な青年の癇癪は続く。侍女は泣きたくなった。
忠光が駆けつけて「どうなさいました?」と聴くと家重将軍は何かを喋った。
きちんとした言語では無いから、周りの者にはわからない。
が、忠光にはわかる。
忠光は
「若君は『寒いから、羽織るものを』と仰せじゃ」
と言った。
周りの者が羽織るものを持って来ると、家重将軍はにっこりと笑って喜んだ。
吉宗将軍が紀州から将軍家に入るとき、首席老中・土屋政直たちと約束したのは
「側用人制度の廃止」
だった。
この約束のもと、土屋政直たちは「紀州支持」に回ったのだ。
吉宗将軍もまた、この「公約」を守った。
吉宗将軍は側用人制度の弊害を理解していたからだ。
しかし吉宗将軍は最終的に「公約違反」をし、忠光を側用人にした。
家重将軍の言語障害のために、弊害があるとわかっていながら側用人制度を復活させた。
泣く泣く復活させざるを得なかったのだ。
弊害はすぐにあらわれた。
忠光は進んで賄賂を取る人では無かったが、向こうからくれるモノは拒まなかったため
官職周旋屋
という不名誉なあだ名を付けられた。
また、もともとはわずか300石だったのが武蔵岩槻2万石に急に身代が大きくなったため、身分の低い者を岩槻藩の重職に取り立てた。
もとは身分が低い者なので露骨に賄賂を要求するような者もいた。
これが忠光の悪評に輪をかけた。
家重将軍は忠光が死んだあとさっさと将軍職を家治に譲って隠居した。
そして翌年に忠光のあとを追うように病死した。
二人三脚そのものの将軍と側用人だった。