【2010年1月8日】
延享3年、大御所吉宗は紀州藩主・徳川宗直と深刻な表情で額を突き合わせていた。
議題は、十代将軍のことである。孫・家治が幼少だったため、もしかしたら夭折するかも知れないと思った。
そうなると、かつて自分が尾張藩と争って八代将軍をもぎ取ったように、今度は尾張藩が十代ないしは十一代将軍をもぎ取るのではないかと不安に思った。
「義太夫、どうすればよいかのう」
「源六、いっそのこと自前で御三家を作ってみてはどうじゃ」
義太夫とは徳川宗直のことで、初め松平義太夫頼致と名乗っていた。
源六とは大御所吉宗のことで、初め松平源六頼方と名乗っていた。
二人は従兄弟同士。「源六・義太夫」の頃は吉原に遊びに行く等、ワル仲間でもあった。
「自前の御三家か…」
大御所吉宗は名案だと思ったが、問題が2つあった。
一つ目は自前で御三家を作る場合、城地を用意しなければならない。
甲府・駿府・館林…候補地はいくつかあるが、やはり御三家とする以上、まとまった石高を与えなければならない。そこで頭を悩ませた。
二つ目は大御所吉宗の子供は家重将軍と宗武・宗尹の三人なので、御三家にするには一人足りない。
宗直はまず、
「家治様の弟の万次郎どのにも別に家を与えればよいではないか、源六」
と大御所吉宗に言った。
先に二つ目の問題がこれで片づいた。
が、一つ目の「どこにどれだけ城地を与えるか」については大御所吉宗も宗直も頭を抱えてしまった。
宗直は
「源六、こうなったら新しい御三家は城も領地も無しでどうじゃ」
と言った。
「城も領地も無し、か」
大御所吉宗は意外な発想に少し驚いた。
だが大御所吉宗は宗直の提案通りにした。
まず、徳川宗武に江戸城田安門内に屋敷を与え、田安徳川家を創設した。
次に徳川宗尹に江戸城一橋門内に屋敷を与え、一橋徳川家を創設した。
その次に家重将軍の次男・万次郎に江戸城清水門内に屋敷を与え、清水徳川家を創設した。
そしてこれを「御三卿」と呼んだ。
領地は与えず、天領の中から10万石を与えた。また、御三卿は自前の家臣団を持たず、家臣は幕府からの「出向社員」だった。
御三卿は大御所吉宗と宗直の思惑通りに役立った。
家斉将軍は一橋家から将軍家に入り、尾張からの血が将軍家に入ることは無かった。