【2011年4月21日】
家継将軍、容態重篤。
紀州藩主・徳川吉宗のもとにこの知らせが届くと、吉宗は深夜、ある人物と密会した。
相手は首席老中・土屋政直。綱吉・家宣・家継の三代にわたって老中職を務める重鎮だ。
「紀州様、我等の願いは側用人制度の廃止でございまする。この儀、何卒お聞き入れ下さいますよう…」
綱吉将軍が側用人制度を導入して以降、幕政(国政)は側用人が左右することが多くなった。
「国務大臣より、私設秘書のほうが偉いのか?」
土屋政直をはじめとする老中職の面々や譜代大名の連中はこれを快く思わなかった。
徳川吉宗も「側用人制度は権現様の御定めに反する」と思っていたので、土屋政直同様側用人制度には反対だった。
八代将軍の候補は、3人いた。
この3人が候補者だったが、実際には継友と吉宗の一騎打ちだった。
家宣将軍が生前、
「鍋松(家継)はまだ幼児だから徳川吉通(継友の兄)を七代将軍にして、鍋松が成長したら八代将軍にすればいい」
と言っていたこともあり、このため徳川継友は側用人制度賛成論者だった。
しかし、土屋たちは側用人制度を廃止したい。だったら、同じ考え方の者を八代将軍に推そう。こうして、土屋は吉宗支持を決めた。
「家継将軍、容態重篤」の知らせは吉宗には伝えたが継友には「単なる風邪」としてしか伝えなかった。尾張藩に対して情報を完全にシャットアウトしたのだ。
吉宗は側用人制度の廃止では合意したが、将軍職の他にもう一つ勝ち取らねばならないものがあった。
紀伊和歌山55万石。
将軍に就任するとなると、綱吉将軍は館林35万石を、家宣将軍は甲府35万石をそれぞれ幕府に返上した例に倣って和歌山55万石を返上しなければならない。
吉宗には松平頼致という兄弟同然の従兄弟がいた。
この頼致に紀州藩を相続させてやりたい。そう思った吉宗は
「側用人制度は土屋どのの言う通り廃止するが、紀州領の返上はのう…やはり、八代将軍には尾張どのが良いのではないか?」
と、わざと引いた。
土屋政直は
「紀州様、和歌山55万石は返上に及ばず。何卒、八代将軍をお受け下され」
と答えた。側用人制度を確実に廃止出来るなら、この程度の取引は安いものだと土屋は判断したのだ。
将軍職と和歌山55万石。吉宗は土屋政直からその両方をもぎ取った。