【2009年2月26日】
津軽信義。
父は津軽信枚で、母は辰姫。
津軽信英。
父は津軽信枚で、母は満天姫。
兄・信義は弘前5万石の藩主となり、弟・信英は1千石の旗本となった。
23歳で旗本となり幕職を歴任すると、諸大名から「さすが権現様のお孫様よ」と評判になった。
満天姫はいえやっサンの養女として津軽家に嫁いだので、信英はいえやっサンの孫として見られた。
やがて弘前藩が信義から信政に代替わりすると、信英はその補佐職についた。
幕府は13歳の信政が弘前藩を相続するにあたって
※信政は当面、信英の補佐を受けること。
※信政は信英に対し、5千石を分知すること。
を条件とした。
幕府の本心は信英を弘前藩主にすることだったが、「正保の変」で信英派の津軽一族や重臣たちがことごとく処分されたので幕府も無理に信英を推すことは無かった。
また、圧力をかけ過ぎて謀反でも起こされて冬の津軽で籠城戦なんてことになったら、と想像した松平信綱たちが「それはちょっと、イヤだなあ」と思い「条件付きで信政OK」とした。
信政は条件を守り、信英に黒石地域を中心に5千石を与えた。これが黒石藩の始まりだった。
黒石藩が正式に大名になるのは信英の頃よりずっと後。だが、信英は交代寄合という大名格の旗本となった。
信英が藩主補佐職としてやったことの中に、面白いことが2つある。
まず最初に、
「藩として、これから日記をつけなさい」
と指示した。
この日記は『弘前藩庁日記』と名付けられ、寛文元年6月3日から明治まで書き続けられた。
山鹿素行の山鹿流軍学は、のちに大石内蔵助が吉良邸討ち入りのときに採用している。
大石よりも前に信英が山鹿素行に眼を向けていたところに面白さを感じる。
信英は母・満天姫がどういう経緯で津軽信枚と再婚し、そして自分が生まれたのかを知っていた。
だからなのか、無欲だった。
「正保の変」のときも、担がれはしたが自分から積極的に弘前藩乗っ取りをやろうとしなかった。
満天姫の子なのだから、「1万石寄越せ」と言えたはずなのに、それも言わなかった。