【2011年7月1日】
文政4年春4月。
江戸での参勤を終え、津軽へ帰国の途につこうとしている陸奥弘前藩主・津軽寧親のもとに早道の者がやって来た。
早道の者は
「殿、南部の手の者、我が藩と久保田藩(秋田藩)との国境付近の城ヶ森に伏せておりまする」
と伝えた。早道の者とは弘前藩に仕える忍者のことだ。
寧親は早道の者の報告を受けると、いつもの弘前への帰国ルートを通らずに違うルートを通って帰国した。
文政4年4月23日。
津軽寧親が事を露見したとは知らない陸奥盛岡藩浪人・下斗米秀之進以下6名は、寧親の一行が通るのを今か今かと待っていた。
秀之進たちは火縄銃と竹鉄砲を用意していた。
竹鉄砲はその名の通り竹で造った鉄砲で一発しか打てないが、秀之進は竹鉄砲を20丁用意していた。
しかし、午後3時を過ぎても寧親一行は現れない。結局、秀之進の寧親殺害計画は失敗した。
津軽と南部は長年犬猿の仲だった。これは江戸時代になる前まで話が遡る。
むしろ、互いの藩主のいのちをこれまで露骨に狙わなかったほうが不思議なくらいだ。
訴え出るにあたり、証人として刀鍛冶の大吉という者の身柄を拘束して江戸へ差し出した。大吉は秀之進が用意した竹鉄砲の銃弾を製造した人物だ。
一方、秀之進は盛岡藩に迷惑がかかることを恐れ、江戸に出ていた。
秀之進は
という変名で道場を開いて生活していた。
文政4年10月16日。
相馬大作こと下斗米秀之進は江戸南町奉行所に逮捕された。逮捕容疑は津軽寧親殺害未遂だ。
明けて文政5年1月11日。
この日、秀之進に対する裁判が行われた。
裁判では寧親殺害計画に盛岡藩がどこまで関わっていたかが最大の争点だったが、秀之進は最後まで口を割ることは無かった。
弘前藩は盛岡藩に対して厳罰を求めたが、秀之進が口を割らなかったうえに盛岡藩関与の証拠物が発見されなかったため、幕府もこれ以上盛岡藩を追及するわけにはいかなかった。
文政5年8月28日。
秀之進に判決が言い渡された。
主文、死刑。
翌日、秀之進は江戸・鈴ヶ森の刑場に引き出された。
斬首される者はどんなに強がっていても、いざ目隠しを顔にかけられると親や恋人の名前を泣き叫んで抵抗する。
が、秀之進は堂々と首を前に差し出して「目隠しはいらぬ」と言った。
下斗米秀之進、享年34。