【2013年4月27日☆】
津軽承昭。
もとの名を細川護明という。肥後熊本藩主・細川斉護の四男で、養子に行くか穀潰しになるかのどちらかだった。
そこへ、弘前藩から養子縁組の話が出る。弘前藩主・津軽順承の娘・常との縁談である。
安政4年6月28日にこの養子縁組は成立し、護明は
と名を改めた。
54万石の部屋住みから陸奥弘前10万石の准国持大名に出世したのだ。
慶応4年5月。
東北の諸藩は会津・鶴岡両藩への弾圧に対抗し奥羽越列藩同盟を結成。
承昭はまず一旦奥羽越列藩同盟に参加する。そうしないと、津軽藩が他の東北の諸藩から狙い撃ちにされかねない雰囲気が色濃かったからだ。
しかし、2ヶ月後にはさっさと新政府軍に恭順した。このあたりが承昭にも細川藤孝以来の「世渡りDNA」が受け継がれていることを感じさせる。
細川家の「世渡り上手」のポイントは
念押しを忘れない
という点だ。
かつて、細川忠興は大坂の陣のあと、次男・興秋を切腹させるという「念押し」をやっていえやっサンからの信用を勝ち取った。
また、息子の忠利は島原の乱の際、幕府が定めた兵役人数よりも遥かに多い軍勢を島原に派遣して家光将軍の信用を得た。
津軽承昭も「先祖の例」に倣って新政府へ「念押し」しようと考えた。
承昭は実家・熊本の実兄・細川韶邦に
「榎本武揚の立てこもる五稜郭は難攻不落なので、援軍を出して下さい」
と要請した。
細川韶邦はこの要請を承諾する。熊本藩は藩内事情から維新に乗り遅れてしまい、韶邦も承昭同様「オレだって、ちゃんとやってるんだぞ」というところを新政府に見せておかなければならなったのだ。
兄弟の思惑は一致した。
明治2年1月2日。
この日、横浜港から汽船1隻が北海道へ向けて出航した。
アメリカ汽船・ハーマン号で、ハーマン号には熊本藩兵約350人が乗船していた。
この船が無事北海道に到着していれば、のちに熊本藩出身者も新政府に食い込めたかも知れない。
しかし、出航した翌日、明治2年1月3日。
ハーマン号は暴風雨のため千葉の勝浦沖で沈没。乗船していた熊本藩兵約200人が溺死してしまったのだ。
韶邦・承昭兄弟の「世渡り上手」は暴風雨のため失敗した。
千葉県勝浦市には、今もハーマン号救助の史跡が残っている。