【2011年2月10日】
津軽順承。
元の名を松平新之助という。
父親は三河吉田藩主・松平信明。松平定信のあとを受けて首席老中となって寛政の改革を継続した「寛政の三遺臣」の一人である。
新之助は信明の三男として生まれた。三男なので吉田藩を嗣ぐ立場にはなく、陸奥黒石藩に養子に出された。黒石藩は弘前藩の分家である。津軽順承の名はここで登場する。
順承は本来なら黒石藩主として生涯を終えるはずだったが、本藩の弘前で藩主・信順が幕府により強制隠居させられる事態が発生した。
順承は、弘前藩を相続した。
津軽信順が強制隠居させられた直接の原因は
預かり手形
と呼ばれる藩札の発行による経済の混乱があった。
累積赤字で首が回らなくなった藩は預かり手形を発行してその場しのぎをしようとした。
預かり手形はかつての久保田藩(秋田藩)の銀札同様兌換されなかったため、大騒ぎとなった。
これが、幕府に知れた。
累積赤字の原因を作ったのは藩主・信順の奢侈贅沢にあった。それを倹約に努めようともせず、インチキ紙幣で乗り切ろうと都合よく考えたのだ。
幕府はこれを認めず、信順を強制隠居させた。
順承は実父・松平信明を真似て自らの倹約から財政の建て直しを図った。
倹約と諸政策により弘前藩財政は徐々にではあるが持ち直した。
しかし、これをよく思わない連中がいた。前藩主・信順とその取り巻きの連中だ。信順と取り巻き連中はかつての贅沢が忘れられないため、順承の改革に不満を抱いていた。
取り巻き連中の一人に中村良吉というのがいた。
良吉は
「信順様を藩主に返り咲きさせるために、水戸様のお力を借りよう」
と徳川斉昭の手を借りて信順を復帰させようと考えた。そして、信順の密書を携えて水戸へ向かった。
この動きをいち早く察知したのが津軽家と縁の深い近衛家であった。おそらく、斉昭の正室・有栖川宮吉子から洩れたのであろう。
近衛家から通報を受けた順承は早道之者を水戸街道に差し向けた。早道之者とは、弘前藩に仕えている忍者集団である。
早道之者は水戸街道の葛西村で中村良吉を格闘の末捕獲した。良吉は弘前に連れ戻されて斬首、信順の取り巻き連中も多くが処分された。