もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

小倉城

f:id:Hanzoandmozu:20191130094209j:plain

【2012年11月20日】

松井佐渡守康之。

初め足利将軍家に仕え、のち、足利義昭の命により細川藤孝に仕えた。

康之は天文19年11月1日に生まれた。父は松井正之、母は荒川澄宣の娘である。

幼少から足利義輝に仕えるが、永禄8年、主君・義輝が松永久秀に殺害される。このとき、兄・松井勝之もともに殺害されている。永禄11年、康之は足利義昭の命で細川藤孝に仕えることになった。

藤孝の下、康之は19歳で初陣を迎え、以後、合戦に出ること50回以上。他国からも「細川家中に松井佐渡守あり」ともてはやされた。

また、羽柴藤吉郎の鳥取城攻めにも出陣し、海路兵糧を鳥取へ輸送。その際に毛利水軍の鹿足元忠を討ち取っている。

細川藤孝が丹後一国を斬り取ると、康之は丹後松倉城主となり1万3千石を与えられた。

いよいよ細川家の重鎮として存在感を増して来た頃、秀吉が「石見国のうちで18万石与えるから、わしに仕えぬか」とスカウトに来た。

康之は

「私の主君は細川藤孝細川忠興。たとえ関白殿下であろうと、他のお方に仕えるつもりはありません」

と、堂々と突っぱねた。

堂々と突っぱねられたことで、秀吉は却って康之に対して好感を覚えた。

秀吉は康之に茶壺・深山を与えた。茶壺を与えた経緯から、深山は「18万石の壺」と呼ばれるようになった。

康之を欲しがったのはいえやっサンも同じで、いえやっサンは関ヶ原後、細川家が豊前一国に豊後二郡を加えた小倉39万石に転封になると、その隣にある豊後速見1万7千石の代官に任命した。

いえやっサンと康之の間には康之の長男・興之をいえやっサンの家臣にするという約束があったが、興之は朝鮮出兵の際に戦死してしまったので、その分として1万7千石の代官に任命した。

しかもその1万7千石について、いえやっサンは「徴税無用」とした。遠回しに「その1万7千石はくれてやる」と言っているのだ。

いえやっサンは康之が秀吉を袖にしたので「口説くのは無理」と思い、長男・興之を召し抱えようとしたが叶わなかった。

細川家が豊前小倉に転封になると、康之は1万3千石から2万6千石に倍加増された。

小倉でも主君・忠興をよく支た。康之はまこと細川家の名家宰だった。

慶長17年1月22日。

松井佐渡守康之、死去。

享年63。

康之の死後、細川家は肥後一国・54万石の大大名となり、康之の次男・興長は長岡姓を与えられて筆頭家老となった。