もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

姫路城

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【2009年2月18日】

池田輝政

徳川幕府のもと、播磨一国(52万石)を与えられ、小早川秀秋の死後はこれに備前一国(28万石)・淡路一国(6万石)を加えられて総石高は86万石となり、さらにそのうえ正三位参議まで位階昇進し「播磨宰相様」と呼ばれた。

「播磨宰相様」になれたのには理由がある。

それは、輝政の再婚相手がいえやっサンの娘・督姫だったからだ。

輝政はもともと中川清秀の娘・糸子と結婚していた。

が、糸子と離縁し息子・利隆を抱えるシングルファーザーとなった。

一方の督姫もまた、北条氏直と離縁したバツイチだった。

バツイチ同士の再婚。

この二人、相性はバツグンだった。

と、いうのも、このバツイチ同士のカップルの間には5男2女の子供が生まれたのだ。

5男2女。

お互い好きで無けりゃ、7人も作れない。

督姫の実家・徳川家は池田家にとっては仇の家だった。

長久手の戦いで輝政の父・恒興の首を討ったのがいえやっサンの家臣・永井伝八郎だった。

永井伝八郎。

のち、永井直勝と名乗り7万石の大名となった。

秀吉の生前、輝政は伏見の徳川屋敷に督姫との婚儀成立の挨拶に出向いた。

まだ長久手の戦いで父・恒興が首を討たれて日が浅い頃のことだ。

輝政はいえやっサンに「この場に永井伝八郎どのは居られるか?」と尋ねると、いえやっサンは「あそこです」と末席にいた伝八郎を指した。

輝政は

「永井どのの口から、我が父・恒興の最期の様子を聴きたい」

と言った。

その場に緊張が走る。

「もしや、この場にて仇討ちか!」

徳川家の家臣団が身構えたとき、輝政は

「いのちのやりとりはいくさ場にてするもの。永井どのを討つのならいくさ場で討つわ」

と言い、危害は加えないという意思表示をしたうえで、「永井どのを近くに招いて下さい」といえやっサンに言った。

伝八郎は輝政の側まで進み

「勝入斎どのは崩れた陣の立て直しの最中、拙者の槍を受けて討ち死にされました」

と話した。

輝政は伝八郎に感謝の言葉を述べるといえやっサンのほうを向き

「永井どのの身上はいかほどでござるか?」

と問うといえやっサンは「5千石でござる」と答えた。

輝政は泣き出した。

「我が父の首の値が、わずか5千石とは…」

いえやっサンはのちに伝八郎を加増して1万石の大名にした。

永井直勝はイケメンだったと伝えられている。